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浅草・吉原散歩 その2 浅草 「今戸神社」

「その1」 の続きで、「待乳山聖天」の後、 「今戸神社」 へ。

「今戸神社」(昔は「今戸八幡」)本殿。 大きな招き猫がお出迎え。
「浅草名所七福神」 の一つ。 福禄寿をお祀りしています

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東都名所之内 隅田川八景 「今戸夕照」 広重
古写真で読み解く広重の江戸名所 森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1)

「今戸焼発祥の地」の碑、新撰組の「沖田総司終焉之地」の碑が境内にあります。
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*その昔、「待乳山聖天」と「今戸神社」の間は、「山谷堀」 (さんやぼり)があり水が流れていましたが、 今は暗渠となり遊歩道となっています。
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*尾張屋江戸切絵図 「今戸箕輪浅草絵図」嘉永六年(1853)。

昔は、舟で隅田川(大川)から山谷堀に入り、吉原(新吉原)へ繰り出す人々が数多くいたようです。
「聖天社」(待乳山聖天)の西側には中村座・市村座などの芝居小屋もあり、かなり賑わっていた界隈だと想像できて、江戸切絵図を見るのも面白いと思いました。
*画像クリックで拡大します*
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その後、「山谷堀公園」 の遊歩道を通って、 「土手通り」(昔の 「日本堤」) へ。
こちらのサイトのページによれば、「日本堤」とは、 「慶応時代幕府の令によって下谷、浅草地方を隅田川の洪水から守るため、今戸から三ノ輪まで山谷堀沿いに築いた土手の名称」 だそうです。
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名所江戸百景 「よし原日本堤」 歌川広重

*山谷堀橋の先にあった 正岡子規の碑。「牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな」
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土手通りをずっと歩いて、「吉原大門」 へ。
「その3」 へと続きます。

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コメント

この招き猫は……
なんかビミョウですねwww

投稿: 則(@@) | 2007.02.28 23:22

ツルン、とした印象ですね~。
商店街の店先にあっても、おかしくないような愛嬌があるというか(笑)。
猫といえば、神田明神にキティちゃんのお守りがあって、びっくりしたことがありました。お寺もキャラクター商品に頼るとは・・。

投稿: きのこ | 2007.03.01 13:23

今戸神社のもとである旧今戸八幡は今戸焼の陶工たちを氏子として抱えていたので、文政年間の陶工たちが寄進した狛犬が今でも残っている点では今戸焼とのゆかりの深い神社であることは事実だと思いますが、現在の神社の境内に溢れている招き猫の姿形が江戸明治の今戸焼の招き猫の姿とは全然関係のないものになっているのが何だか変です。今戸の地にあって、なぜ昔のものを伝えようとしないのか、、、。もちろん現代の流行り神として2体がひとつになった招き猫が現代の今戸焼の製品であることに何もいうことはありませんが、後世になってこれが江戸伝来の招き猫であるというように百科事典の画像に載るようになってしまったら、、危惧しています。氏神様はその土地の昔の姿を正しく伝える役割を担っているものだと思うのですが、ここの招き猫の姿を見る限り、歴史を大切にしているように見えないのが残念ではあるし、お参りに来る善男男女たちもこれが昔ながらの今戸焼の招き猫の姿だと思って疑わないことが、将来への不安を感じてしまいます。

投稿: 猫きち | 2012.03.20 21:49

猫きちさん、はじめまして。丁寧なコメントを、どうもありがとうございます。
あの招き猫の姿は、ちょっと違和感を感じていました。なるほど、猫きちさんのおっしゃるように、「江戸明治の今戸焼の招き猫の姿とは全然関係のないものになっている」んですね。
江戸伝来の招き猫の姿をした像を置いていただきければなと、私も思います。

投稿: きのこ | 2012.03.20 23:56

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