ハイデルベルク城を見学する 01城の歴史 火薬庫の塔
「ドイツ・ドライブ旅行 ハイデルベルク城へ - ハイデルベルク城 & 旧市街の駐車場」のつづき。 ハイデルベルク城の見学です。
★「ハイデルベルク城」Schloss Heidelberg http://www.schloss-heidelberg.de/
ハイデルベルク城は、1225年、はじめて記録に登場。 ライン宮中伯(プファルツ伯)の邸宅であることが、記される。
1356年から、金印勅書(Goldene Bulle)によって、神聖ローマ帝国皇帝の選定権を有する選帝侯7名が確定されて、 ライン宮中伯(プファルツ伯)は、その一人と確定
その後、プファルツ選帝侯となったフリードリヒ5世(Friedrich V., 1596年-1632)がボヘミア王位を受任すると、新教派(プロテスタント)の選帝侯と旧教派(カトリック)との間で 「30年戦争」(1618-1648)が勃発。 フリードリヒ5世は、そのボヘミア王位受任から、わずか13ヶ月後に戦いに敗れたことから、冬王と呼ばれることに。ハイデルベルク城も攻撃の対象に
★30年戦争については、「プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠」のエントリー記事(2014/07/30)参照。
その後、フリードリヒ5世の息子、カール1世ルートヴィヒが復権。領地は改善されるも、フランスの太陽王といわれたルイ14世の時代、プファルツ承継戦争(1688 - 1697)により、フランス軍によって侵略される。1689年、1693年、城も攻撃を受け、1693年には、町も城も徹底的に破壊される
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ハイデルベルク城のすぐ近くにある高台の駐車場から、城に至る階段 (写真右) を降りると、城内の庭園 ホルトゥス・パラティヌス „Hortus Palatinus“(プファルツ選帝侯の庭 Pfälzischer Garten)へ この庭園は、プファルツ選帝侯 フリードリヒ5世(Friedrich V., 1596-1632)の時代に建設されたが、完成に至らなかったもの。
写真左は、庭園と、「父なるライン」„Vater Rhein“(ファーター・ライン)の像のある噴水。 壁は修復工事中。
「火薬庫の塔」Krautturm (Pulverturm, Gesprengter Turm)。 かつて、この塔の下層に火薬倉庫があり、1693年、前掲「プファルツ承継戦争」の際、フランス軍によって破壊された。 壊れ方が凄まじい
ジャック・フケール (Jacques Fouquières)によって、1620年頃に描かれた城内の庭園、ホルトゥス・パラティヌス „Hortus Palatinus“(プファルツ選帝侯の庭 Pfälzischer Garten)と城 こんなに美しい庭の完成が待たれていたのに・・・
もっとも、ロマン派が絶賛した、廃墟ならではの美も捨てがく、ウィリアム・ターナーも、ハイデルベルク城を描いたらしい(Wiki)
この壁の厚み! 実際にここで戦っていた兵士の姿を想像すると、ものすごい迫力が伝わってくる
お城の Information で、入場券とオーディオガイド(日本語)を購入
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