コレッジョ 「ガニュメデスの誘拐」「ユピテルとイオ」@ウィーン美術史美術館 06
「ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum 05 カフェで休憩 Cafe & Restaurant」のつづき。
ウィーン美術史美術館の絵画コレクションに貢献したハプスブルク家出身の皇帝として、まず挙げられるのが「ルドルフ2世 (Rudolf II)」(1552-1612, 神聖ローマ皇帝在位 1576-1612)。
彼のコレクションのうち、まずは、アントニオ・アレグリ、通称、コレッジョの「ガニュメデスの誘拐」と「ユピテルとイオ」。
"The Abductin of Ganymede" (c.1530), by Antonio Allegri, called Correggio, "Jupiter and Io" (c.1530), by Antonio Allegri, called Correggio (c.1489–1534).
「ガニュメデスの誘拐 (The Abductin of Ganymede)」では、鷲の姿に変身したユピテル(ゼウス)によって上空へと連れ去られようとしている、ほぼ裸体に近い姿の美少年。その美少年がこちらに向ける視線や表情に吸い寄せられる。同性愛における少年愛の世界。
「ユピテルとイオ (Jupiter and Io)」では、黒い雲の姿に変身したユピテル(ゼウス)に抱きしめられ、甘い吐息を洩らすイオ。その白い肌のコントラストが美しい。
いずれもマントヴァのゴンザーガ家、フェデリーコ2世 (Federico II Gonzaga, 1500-1540)の注文による、コレッジョの「ユピテルの愛の物語」の4部作の一部(1530年–1531年頃)。
古代ローマの詩人、オウィディウス (Ovidius, BC43-AC17)「変身物語 (変形譚 Metamorphoses)」の「ユピテルの愛の物語」に基づく作品。
ユピテルはローマ名。ギリシャ名ではゼウス。英語名ではジュピター。ギリシャ神話における、天界を支配するオリュンポスの神。
「変身物語 (変形譚 Metamorphoses)」は、古代ローマの詩人 「オウィディウスの叙事詩体による神話物語集。15巻人間が動植物などに変わる奇跡的転身の物語を集めたもので、ギリシア・ローマの神話伝説の最も華麗な集大成。」(ブリタニカ国際大百科事典より)。
★http://www.khm.at/ Entdecken (Explore) > Google Art Project で、きれいな画像が見られます。
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なお、4部作のその他の作品の一つは、「ダナエ (Danae)」(ローマ、ボルゲーゼ美術館 Museo e Galleria Borghese 所蔵)。
「ダナエの産む男児はおまえを殺すであろう」という神託を受けたダナエの父親。その父親にに閉じ込められているダナエ。そこに黄金の雨に変身したユピテル(ゼウス)は初々しい肢体のダナエ、そして、翼を持つ美少年の姿をしたアモールに迎えられ、ダナエへと降り注ぐ。(ダナエは、ペルセウスを産み、予言どおりダナエの父親を殺してしまう)
★「ダナエ」の絵は、http://www.galleriaborghese.it/borghese/en/edanae.htm
もう一つは、「レダとスワン (Leda and the Swan, Leda mit dem Schwan)」(ベルリン・絵画館 Gemäldegalerie 所蔵)
★「レダとスワン」の絵は、http://www.smb.museum/museen-und-einrichtungen.html >Gemäldegalerie > SMB-digital Online collections database
SCHNELLSUCHE ALLE SAMMLUNGEN (QUICK SEARCH ALL COLLECTIONS) で "Leda mit dem Schwan"を検索のこと。
他3点と比べると、「愛」の描写があからさまで、なんとも妖しい雰囲気が漂っているような気が・・・。
★「ガニュメデスの誘惑」については、「怖い絵 (角川文庫)」。この朝日新聞社版参照。
ダナエほか4部作については、「ボルゲーゼ美術館最新ガイド」(GEBART社)。 ギリシャ神話については、「中野京子と読み解く 名画の謎 旧約・新約聖書篇」参照。
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コレッジョの作品は、2008年のイタリア旅行の際、ローマのボルゲーゼ美術館で開催されていた「コレッジョ展」("Correggio e l'antico" May 22 - Sep.14, 2008. Galleria Borghese
で見て以来ファンなのですが、再び見ることができ大変嬉しかった。
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いずれも1530年頃の作品。
その約11年前の1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去。選帝侯による選挙により、同じくハプスブルク家のカール5世(1500-1558、当時19才) が神聖ローマ皇帝の地位を承継(スペイン王としては、カルロス1世)。それに伴い、ハプスブルク家はドイツ、オーストリア、フランドル、スペイン等々広大な領土を支配。
その後、カール5世は、フランソワ1世(1494-1547)、晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとなったフランス王率いるフランス軍と、イタリア支配をめぐって、イタリアの地において激突。
「パヴィアの戦い」(1525年)でフランス軍が敗退。フランソワ1世は捕虜となる。ミラノ、ナポリの主権放棄等のマドリード条約を結んで1526年1月釈放されるも、勝手に条約を破棄!
しかも、1526年5月、カール5世による勢力拡大を恐れた当時の教皇、クレメンス7世 (1479-1534、在位1523-1534)が、フランソワ1世のほか、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ間で、カール5世に対抗する同盟、「コニャック同盟」を締結。
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相対するカール5世側は、ローマにまで進軍。 1527年5月には、ヨーロッパ中で非難の的となる、「サッコ・ディ・ローマ Sacco di Roma - ローマ掠奪(りゃくだつ)」に至る。
カール5世側の軍を構成するのは、スペイン兵と、ランツィケネッキと呼ばれたドイツの傭兵。ルター派のプロテスタントが半数以上。
司令官が戦死。給料を十分に与えられていなかった傭兵は掠奪の限りを尽くし、ローマは徹底的に破壊され、イタリア・ルネサンスはここに終焉を迎える。
このとき、ヴェネツィアとミラノの間にある小国、「マントヴァ」はコニャック同盟に不参加。
教会軍の総司令官となる誓約をしていたマントヴァ公爵フェデリーコ2世 (1500-1540、カール5世と同い年) は進軍せず。
この誓約書。なんと、フェデリーコ2世の母、イザベッラ・デステ (1474-1539)が手をまわし、事前にバチカンの金庫から盗ませ、焼却させていたのでした。
★ピーテル・パウル・ルーベンス「イザベッラ・デステの肖像」(ウィーン美術史美術館)。この肖像画は彼女の死後に描かれたもの。"Isabella d'Este"(c.1605), by Peter Paul Rubens。
レオナルド・ダ・ヴィンチによるイザベッラ・デステのデッサン(ルーヴル美術館蔵)。
このとき、イザベラ・デステの三男フェランテはスペイン軍の隊長だったので、この禁じ手を使うのもやむなしというべきか。
その後、1526年から続く、オスマン帝国 (オスマン・トルコ) による進入に伴う「第一次ウィーン包囲」(1529年)。これを持ちこたえて、ウィーン陥落を回避。
(第二次ウィーン包囲は、1683年。前掲スペインのマルガリータと結婚したレオポルト1世治世の頃)
1530年2月、ローマ掠奪の記憶の生々しく残るローマではなく、ボローニャにおいて、カール5世は、ローマ教皇の手によって、正式に神聖ローマ帝国皇帝として戴冠される。
このカール5世、20代の10年間における戦いの日々を思うと、智慮と策略、時の運無くしては、ひょっとしたら生き残れなかったかも。
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さて、1530年3月、マントヴァに立ち寄ったカルロス5世よって、フェデリーコ2世は公爵に昇格。
日本語版カタログでは、「フェデリコ・ゴンザーガが 1532年にマントヴァで皇帝カール5世に献上したものと思われる」と、コレッジョの絵の来歴が記されています。
このコレッジョの絵を注文し、カルロス5世への献上品としたマントヴァのフェデリーコ2世。 厳しい時代をなんとか乗り切り、カール5世側に付いて昇格。今後の行く末など、格別の思いがあったことでしょう。
以上の歴史については、塩野七生著 「わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡〈3〉 (新潮文庫)」「ルネサンスの女たち (新潮文庫)」第一章イザベッラ・デステ、中野京子著「名画で読み解く ハプスブルク家12の物語 (光文社新書 366)」
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ルドルフ2世は、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としては、カルロス1世)の孫であり、オーストリア系ハプスブルク家を承継したフェルディナント1世の孫でもあり。フェリペ2世の4人目の王妃、「アナ・デ・アウストリア」の弟。
ルドルフ2世は、1583年、ウィーンからプラハに居城を移し、そこでコレクションを充実させていきます。
ルドルフ2世の死後、30年戦争(1618-1648)の末期、1648年にスウェーデン軍によるプラハ包囲、占領により、その大部分は略奪され散逸。
しかし、それでもデューラー、ブリューゲル、コレッジョなど、珠玉のコレクションがウィーンに移されました。
日本語版、「ウィーン美術史美術館 絵画」(C.H.ベック)のカタログでは、「ガニュメデの誘惑」は1603/4年に皇帝ルドルフ2世の美術室に。 「ユピテルとイオ」は1601年に皇帝ルドルフ2世の美術室に。
この作品を購入する際には、スペインでの交渉が長期間にわたり、スペイン大使ケーフェンフィラー伯爵は、ルドルフ2世から、コレッジョ 「ガニュメデス」 のオリジナルが手に入らないときには、せめてコピーでもいいから入手せよと命じられていました(トマス・D・カウフマン著 斉藤栄一訳 「綺想の帝国―ルドルフ二世をめぐる美術と科学」(工作舎)299頁 )。
それほど、ルドルフ2世にとって思い入れのある作品。 自らのコレクションに加えたときの喜びは、いかばかりであったことでしょう。
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ルドルフ2世については、中野京子著 「名画で読み解く ハプスブルク家12の物語 (光文社新書 366)」の第7章「ジュゼッペ・アルチンボルド「ウェルトゥルヌスとしてのルドルフ2世」、トマス・D・カウフマン著 斉藤栄一訳 「綺想の帝国―ルドルフ二世をめぐる美術と科学」(工作舎)、R.W.J.エヴァンズ著 中野春夫訳 「魔術の帝国―ルドルフ二世とその世界 (テオリア叢書)」(平凡社)が大変参考になりました。
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美術館の話題からちょっと脱線しましたが、ハプスブルク家の歴史にも関わっていますし、スカパー、イマジカBSで見たドラマ、チェーザレ・ボルジア、教皇アレクサンデル6世の 「ボルジア 欲望の系譜 Borgia: Faith And Fear」「THE TUDORS- ヘンリー8世 背徳の王冠」 にハマりすぎて、1500年前後のヨーロッパの歴史が三度の飯より好きな私。ついつい長くなりました。
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