ウィーン 「マリア・テレジア像」、「ブルク門」 Maria-Theresien-Denkmal, Äußeres Burgtor (Wien)
「ウィーン美術史美術館 古代ギリシャ・ローマ・古代エジプト・コレクション」のつづき。
「ウィーン美術史美術館」と、その向かいにある「自然史博物館」の中央には、「マリア・テレジア記念像, Das Maria-Theresien-Denkmal in Wien」。
形の上では夫フランツ1世が神聖ローマ帝国皇帝となるので、マリア・テレジアはその皇后。 でも、実質的には女帝として君臨, 1717-1780)。 16人の子供を産み、婚姻政策により、娘マリー・アントワネットをフランスのルイ16世に嫁がせた。
「自然史博物館 Naturhistorisches Museum」 ネオ・ルネッサンス様式の壮麗な建物。ウィーン美術史美術館と同様 1800年代後半に建てられました、
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「ブルク門 Äußeres Burgtor」
ハプスブルク家皇帝のウィーンの居城 「ホーフブルク王宮(Hofburg)」へと続く外城門。
1857年、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が取り壊しを決定するまで、ウィーンの街を防御していた市壁 (Die Wiener Stadtmauer) と壕のあった"Ring (環状道路)"沿いの側には、"FRANCISCVS. I. IMPERATOR. AVSTRIAE. MDCCCXXIV." と刻まれています。
これは、"Francis I, Emperor of Austria, 1824 (Franz I., Kaiser von Österreich 1824)"の意味。
Francis I は、最後の神聖ローマ皇帝 (在位1792-1806) であり、最初のオーストリア皇帝フランツ1世 (Franz I., 在位1804-1835) となった、フランツ2世 (Franz II., 1768-1835)
現在のブルク門は 「ライプチヒの戦い (Battle of Leipzig, 1813) で、オーストリア・プロイセン・ロシア・スウェーデン軍が、ナポレオン率いるフランス軍に勝利したことを記念して建てられました(1821-1824)。
フランツ2世は、ナポレオン戦争に巻き込まれたばかりに、神聖ローマ皇帝の称号を、自ら放棄せざるをえなくなり、しかも、娘のマリー・ルイーズを、あろうことかナポレオンの妻として差し出す羽目になってしまったので、その喜びは如何ばかりかといったところ。
それ以前にあった古いブルク門は、ウィーンの市壁(Wiener Stadtmauern)、要塞(Festungsanlagen)の一部。
1683年のオスマン帝国 (オスマン・トルコ) による「第二次ウィーン包囲」のときには、オスマン帝国との戦いが繰り広げられ、陥落を免れるも、1809年には、ナポレオン軍により爆破されてしまっていました
ウィーンの歴史、そして古地図や資料をみると、なおさら興味がわいてきます。
ウィーン美術史美術館周辺を見学した後、自転車で環状道路のリング沿いをミニ観光
つづきます。「ウィーン レンタサイクル 「Citybike Wien」で観光 03 ウィーン自転車マップ」
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