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2014年1月の8件の記事

「アウグスティーナー教会」 ハプスブルク家の心臓埋葬

「国立図書館プルンクザール」を見学する」のつづき。

オーストリア国立図書館プルンクザールの左隣は、「アウグスティーナー教会」(Augustinerkirche) 。 ハプスブルク家54人の心臓をおさめた壺が安置されている「ロレット礼拝堂」(Loretokapelle)があります。
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入口ドアには、「物乞いと行商禁止」 という貼り紙。 この単語がわからなくて、いいのかな~と不安になった
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アウグスティーナー教会は、フリードリヒ美公 (Herzog Friedrich der Schöne) と呼ばれたドイツ王、フリードリヒ3世 (Friedrich III. 1289-1330)によって、1327年に設立。1349年に献堂。 天井の尖塔形アーチと交差リブ・ヴォールトのゴシック建築
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その中でも重要な位置を占めるのが、「ロレット礼拝堂」 (Loretokapelle)。

※入って右側奥に、施錠された扉がある。 見学は、ガイドツアーのみ(後述)。
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この礼拝堂は、フェルディナンド2世 (1578-1637) の2度目の皇后、エレオノーラ(Eleonore von Gonzaga イタリア、マントヴァのゴンザーガ家出身) が、「ロレートの聖母」(La Madonna di Loreto)と呼ばれる 「黒い聖母(マリア)」を祀る、イタリアのサントゥナリオ・デッラ・サンタ・カーザ Santunario della Santa Casa (Basilica della Santa Casa) と同じようなものを、アウグスティーナー教会の中に作りたいと希望して作られたもの。 1627年に聖別。

そして、1634年、教会は宮廷の教区教会に昇格。 ロレット礼拝堂は、公的にも認められた、王家のプライベート・チェペルとなる。
http://www.augustinerkirche.at/augustinus.php?sublink=f8

それゆえ、アウグスティーナー教会では、1736年のマリア・テレジアとフランツ1世の結婚式など、数多くのハプスブルク家の結婚式が行われるようになりました

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そして、埋葬儀礼につしては、ハプスブルク家が果たす役割を特別に考慮して、心臓は銀の容器(例外で金製が一つあり)に入れて 「アウグスティーナー教会」 (Augustinerkirche)「ロレット礼拝堂」 (Loretokapelle) に。 心臓以外の内臓(肺、胃腸、肝臓など)は、銅の容器に入れて 「シュテファン大聖堂」 (Stephansdom) の地下安置所に。 それ以外の遺体は、「カプツィーナー教会」 (Kapzinerkirche) の地下にある皇帝廟にと、三箇所に分けて安置。

そして、このロレット礼拝堂には、この皇帝廟の創始者、皇后マリア·アンナ (Maria Anna 1618年死去) から、皇帝フランツ·ヨーゼフの父、大公フランツ·カール (Erzherzog Franz Karl (1878年死去) に至るまで、ハプスブルク家 54人の心臓が安置されている

★「ハプスブルク家の心臓埋葬」 Die Herzgruft der Habsburger
http://www.augustinerkirche.at/augustinus.php?sublink=f9
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★「ガイド付き見学」(Führungen フュールング, guided tour)は、(AM11:00 からの) 日曜日の「荘厳ミサ」 "Hochamt" (ホーホ・アムト High Mass) の後で、 あるいは (bzw. = beziehungsweise ベツィーウングスヴァイゼ、or)、「教会事務所」"Pfarrkanzlei" (プファレ・カンツライ) への「予約申し込み」 (Voranmeldung フォーア・アンメルドゥング) が必要
sonntags nach dem Hochamt bzw. auch nach Voranmeldung in der Pfarrkanzlei (Tel:533 70 99). Erwachsene (エアヴァクセネ, 大人 adult) 2,50 euro、 kinder (キンダー, 子供 children) 1,00 euro

★ミサ "Gottesdienste"(ゴッテス・ディーンステ Mass)の曜日と時間は、http://www.augustinerkirche.at/augustinus.php

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礼拝堂の入口近くにある、骸骨が描かれた壁
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ロレット礼拝堂の内部には、「黒い聖母」像が置かれている

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ところで、遺体から心臓だけを取り出して壺に収めるといった心臓埋葬は、つい最近の2011年7月のハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国, 1918年帝政廃止)の最後の皇太子だった、オットー・ハプスブルク (Otto von Habsburg, 1912-2011) の葬儀でも行われ、オットーの心臓は、ハンガリーのパンノンハルマ (Pannonhalma) 修道院に 遺体は、カプツィーナ教会の皇帝廟に安置されている。

そのビジュアルで想像すると、たとえ手術の後だとしても、ちょっと怖いものがある・・・。 ハプスブルク家の伝統を大切に守ったとも言えるのだけど。

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この心臓埋葬は、イングランドのリチャード1世(獅子心王、Richard I, Richard the Lionheart, Cœur de Lion, 1189-1199)や、フランスのルイ9世(1214-1270)の死に際しても行われ、ハプスブルク家特有のものではない。

そして、ドイツ、バイエルンのヴィッテルスバッハ家でも、映画「ルートヴィッヒ」でおなじみ、ル-トヴィッヒ2世を含め、心臓埋葬が行われており、「バイエルンの(信仰の)心臓」とよばれる、アルトエッティングの「恵みの礼拝堂」(Gnadenkapelle (Altötting), "Chapel of Grace")、緑の屋根の八角堂には、「黒い聖母」(黒いマリア) "Schwarze Madonna" (Black Madonna) 像の向かいに歴代バイエルン王らの心臓が納められている http://www.altoetting.de/

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ところで、心臓信仰は、フランスのカトリック修道女、聖マルガリタ・マリア・アラコック (Marguerite Marie Alacoque 1647-1690) の前にイエス・キリストが現れ、自らの心臓を示したという奇跡に基づく(Wiki 英語版の図参照)。

だから、パリのモンマルトルにあるサクレクール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur) は、「聖なる心臓」の寺院を意味し、「聖心」(Sacred Heart)とは、精神的な 「心」 をこえる意味を持つ (Wiki)

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心臓埋葬については、養老孟司「ヨーロッパの身体性」 第1回「ハプスブルク家の心臓埋葬」/「考える人」季刊誌 2012年春号 No.40 (新潮社)、 第2回「心臓信仰」/「考える人」季刊誌 2012年夏号 No.41 掲載の記事がとても参考になり、このブログ記事もこれを参照しているが、これを知ったときには、かなりびっくりしてしまった

むろん精神性を重視していることを前提に、肉体的な心臓を、精神とは切り離さずに重視している点

仏教やヒンドゥー教では、肉体よりも魂を重視し、輪廻転生。 火葬でもノープロブレム。
これに対して、ユダヤ・キリスト教の世界やイスラム教の世界のように、最後の日の 「復活」 という概念があるところでは、火葬に関する解釈はじめ、いろいろ違ってくるのだろう。

脱線したけど、宗教に関しては、中村うさぎ、佐藤優の対談 「聖書を読む」(文藝春秋)、「聖書を語る」(文春文庫) が、神学的思考、神の非合理性、聖書は男のファンタジー(笑)などなど、面白くて非常に勉強になった

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アントニオ・カノーヴァ (Antonio Canova, 1757 - 1822) による記念碑(Canova-Denkmal 1798/1805)
http://www.augustinerkirche.at/augustinus.php?sublink=f5-4
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ところで、イタリア・ヴェネツィアにある 「サンタ·マリア·デイ·フラーリ教会」 (Basilica di Santa Maria Gloriosa dei Frari)には、カノーヴァの弟子によって、このピラミッドの記念碑に似たものが作られ、カノーヴァの心臓の入った壺が埋葬されている。

と、またもや 「心臓埋葬」 なのでした。。

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アルベルティーナの方向へ。 右側は、アウグスティーナー教会。
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つづきます。「ウィーン 「ロブコヴィッツ宮殿」 と ベートーヴェン「英雄」 A Beethoven Walk - Palais Lobkowitz, Theatermuseum Vienna ★ナポレオンについて追記あり 2014/02/11

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「国立図書館プルンクザール」を見学する

ウィーン王宮 ヨーゼフ広場、国立図書館プルンクザールへ」のつづき。

「世界一美しい図書館」との呼び声も高い、かつての王宮図書館。バロック様式。
「オーストリア国立図書館プルンクザール (Der Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek)」(State Hall) の中を見学。
http://www.onb.ac.at/prunksaal.htm英語版
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「プルンクザール」 の Prunk (プルンク) = splendor, magnificence (豪華)、Saal (ザール) = Hall (広間) の意味。英語では、"State Hall"と訳されている。 王宮の中では、最も行ってみたかった場所でした
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月曜定休。 月曜休み。10時から18時まで(木曜は21時まで)。http://www.onb.ac.at/ev/services/oeff.php
入場料金は、一般 7,00 euro (2014/01現在) 19才未満無料(Free admission to all museum areas for children and young people under 19 years.)
アクセス・マップは、こちら
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入口入って左側にあるチケットオフィスでチケットを購入。左側にある階段を上った先には、
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外からは想像もつかないほど、壮麗、豪華。 このバロック様式の内装に目を奪われる
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宮廷図書館、現在のオーストリア国立図書館は、女帝マリア・テレジアの父、カール6世 (Karl VI.,1685-1740, 神聖ローマ皇帝在位:1711-1740) の命により、1723年から1735年にかけて建築。

そして、「プルンクザール」は、有名な宮廷建築家ヨハン·ベルンハルト·フィッシャー·フォン·エルラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach) の計画に基づき、彼の息子ヨーゼフ・エマーヌエル(Joseph Emanuel)によって、1723年から1726年にかけて建てられました
http://www.hofburg-wien.at/en/things-to-know/vienna-hofburg/a-brief-history.html

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天井のフレスコ画、ぎっちり詰まった本棚、そして、床の模様
なんて、美しい図書館 ひょっとしたら、世界一美しいかも。。
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もっとも、床の模様だけは、イタリア・フィレンツェにある 「ラウレンツィアーナ図書館」(Laurentian Medici Library, Florence, Italy)の閲覧室。 あの、象眼細工のように繊細で美しい模様に軍配が上がるだろう。
ただし、ラウレンツィアーナ図書館の閲覧室。 その保護のため、見学のための通路として絨毯が敷かれていたのがすっごく残念でたまらなかった(2008年夏、私の両親と見学)。 この図書館は、メディチ家出身のローマ教皇、クレメンス7世の依頼で、ミケランジェロが設計したもの。 http://www.museumsinflorence.com/musei/Laurentian_Library.html
「ラウレンツィアーナ図書館」 の閲覧室の床の模様が合体したら・・・、なんて妄想してしまう。

ちなみに、"最も印象的な古代写本コレクション20" (The 20 Most Impressive Ancient Manuscript Collections) の2位にラウレンツィアーナ図書館、4位にオーストリア国立図書館のパピルス博物館が選ばれています。

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余談はさておき、「プルンクザール」の天井クーポラのフレスコ画の素晴らしさよ
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この宮廷画家ダニエル・グラーン (Daniel Gran) による天井のフレスコ画は、1730年に完成。

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そして、クーポラの下には、この図書館が作られた歴史のアレゴリーとして、芸術と科学の保護者にしてパトロンたる、「カール6世」(女帝マリア・テレジアの父)の、ヘラクレスの姿に神格化された像が中央に置かれている 「これでどうよ!」 みたいな(笑)。
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それぞれ本の高さにあわせて、きっちり本が収納された木製の本棚。まさに 匠の職人芸
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中二階にも本棚があり、係員の人が、リクエストのあった本を取り出したりしていた。 ここにある本は、係員以外は触れてはいけないことになっている。
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本棚から天井につながるアーチ。そのフレスコ画も、緻密にして華麗 それは、まるで3D画像!!絵が浮き出して、空に漂っているかように見える。
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中央クーポラの下のオーバル部分の四隅には、古い地球儀が置かれてる
中野京子著「名画で読み解く ハプスブルク家12の物語」(光文社新書)にも書かれているとおり、ハプスブルク家のの最盛期、地球上、24時間、その植民地を含む領土は、ずっと太陽に照らされていたわけで、まさに「日の沈まぬ王国」だったのだ
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今日、「プルンクザール」には、1501年から1850年にかけて収集してきた、約20万冊 にも及ぶ本。 この中央オーバル部分にある 「オイゲン公」 (Prince Eugene of Savoy, 1663–1736) の1万5千冊のコレクション が所蔵されている
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http://www.onb.ac.at/ev/state_hall/statehall_about.htm

そして、オイゲン公のコレクションの中でも、最も価値があるとされているのが、「Tabula Peitomgeroama」。12世紀に模写された古代ローマ時代のストリートマップ。 プルンクザールのガラスケースに展示されていた。
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ところで、「オイゲン公」といえば、オスマン帝国 (オスマン・トルコ) による「第二次ウィーン包囲」の危機的状況を回避し、スペイン承継戦争でも活躍した人物で、現在、世界最大規模のクリムトコレクションがあることで有名な 「ベルヴェデーレ宮殿」を建てたことでも有名だけど、その知見の高さも想像に難くはない。その蔵書の数だけで満足したのでない限り・・・。 ハプスブルク家に、お抱えの学者がいたように、きっと良きアドバイザーがいたと思う。

★オイゲン公については、「ウィーン 「ベルヴェデーレ宮殿・上宮」 Schloss Belvedere ,「オイゲン公の冬の宮殿」 Winterpalais Prinz Eugen」。

今年、2014/04月公開予定の映画、「神聖ローマ、運命の日 オスマン帝国の進撃」 (11 settembre 1683, The Day of the Siege) での、「第二次ウィーン包囲」でのオイゲン公さまの活躍も楽しみなり

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他にも、美しい中世の写本や、歴史的に重要な写真の数々が展示されていて、大変に興味深かった。
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ところで、オーストリア国立図書館の公式サイトでは、http://www.onb.ac.at/ では、デジタルアーカイヴが一般に公開されている。

★"Digitaler Lesesaal"(ディギタール・レーゼ・ザール) 「デジタル閲覧室」
http://www.onb.ac.at/bibliothek/digitaler_lesesaal.htm

たとえば、"Bildarchiv Austria" 「オーストリアの写真アーカイブ」(Bild ビルト = 絵・写真 picture、archiv アルヒーフ = archive) の "Schnellsuche" 「クイック検索」(Schnell シュネル = 速い、Suche ズーヘ =探すこと => Quick Search) 。

"Nationalsozialismus" (ナツィオナール・ゾツィアリスムス) = 「ナチズム」 を検索すると、戦前のオーストリアにおける、ナチズムに関する写真を検索することができる。

古い資料をただ蔵書するだけではなく、一般人も、公式サイトから自由に閲覧できるようにしているところが、本当に素晴らしい!!

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そして、もしここで閲覧可能だったら、何時間でもいられそう
規模においても、その華麗さにおいても、歴史的にもの凄く貴重な図書館。 実際、ここに来ることができ、本当に良かった。
というわけで、他の観光客の人と、記念撮影の撮りっこ
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そして、写真満載のオーストリア国立図書館のガイドブックを購入(英語版 8,00 euro。日本語版は無し)。
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つづきます。「「アウグスティーナー教会」 ハプスブルク家の心臓埋葬

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ウィーン王宮 ヨーゼフ広場、国立図書館プルンクザールへ

ウィーン王宮 スイス門、王宮礼拝堂、王宮宝物館」のつづき。
ウィーン王宮ホーフブルク宮殿、1250年以前の最古の建物の「スイス宮」(Schweizertrakt, Swiss Wing)から、「国立図書館プルンクザール」のある「ヨーゼフ広場」へ。

★ウィーン王宮ホーフブルク宮殿の地図 Hofburg Location Map
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地図上、「現在地」(Standort シュタント・オルト, present location)を示す◎は、スイス宮の建物を抜けた、王宮礼拝堂の裏手の小さな広場。

この奥から、モーツァルト像のあるブルク公園(Burggarten)に抜けられるようになっていた。 さらに建物の中の通路を進むと、
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「ヨーゼフ2世騎馬像」のある「ヨーゼフ広場」(Josefsplatz)。 後ろは、「国立図書館プルンクザール」(Österreiche Nationalbibliothek-Prunksaal)の入口。
ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741-1790) は、父フランツ1世の死後、母マリア・テレジアとともに共同統治を行った皇帝(神聖ローマ皇帝在位:1765-1790)。
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このマリア・テレジアとヨーゼフ2世との共同統治時代の1774年に、ゲーテ (Goethe, 1749 - 1832 )が「若きウェルテルの悩み」を刊行しています。

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図書館の左は、「アウグスティーナー教会」(Augustinerkirche) 。ハプスブルク家54人の心臓をおさめた壺が安置されている「ロレット礼拝堂」(Loretokapelle)があります。 外壁は工事中でしたが、中には入れました。
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国立図書館プルンクザールの道をはさんだ向かいには、1783年、シェーンブルン宮殿のグロリエッテを設計した Johann Ferdinand Hetzendorf von Hohenberg による、新古典主義様式 (neoclassicism) の「パラヴィチーニ宮殿」(Palais Pallavicini) http://www.palais-pallavicini.at/en/index.html
http://www.tourmycountry.com/austria/palais-pallavicini.htm
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入口(Portal)の左右には、優美な女性像柱(カリヤティード, Caryatid)
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1845年から1850年にかけて改修された2階の 「迎賓室」(The state rooms)は、その豪華な姿を今にとどめています。イベントやウェディング会場としてレンタル可能。PDF 3Dツアー

映画 「第三の男」(The Third Man 1949)のロケにも使われました。 この映画も見てみなくては

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国立図書館プルンクザールの右隣には、「レドゥーテンホール」 と 「スペイン乗馬学校」
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「レドゥーテンホール」 (Redoutensäle, 1629-1631/1744-1776) は、女帝マリア・テレジアが、17世紀のオペラハウスを、美しいダンス&コンサートホールに改装した建物

そして、現在、「スペイン乗馬学校」(Spanische Hofreitschule, Spanish Riding School )の公演が行われている 「冬の乗馬学校」(Winterreitschule, Winter Riding School, 1729-1734) は、マリア・テレジアの父、カール6世が建設した、世界最古の乗馬学校
http://www.srs.at/en/ 入口など、ロケーションマップ→ http://www.srs.at/en/information/location/

http://www.hofburg.com/jart/prj3/hofburg/data/uploads/epaper/geschichte/page9.html#/12 p.12 参照

次に、世界一美しい図書館の一つと言われている 「国立図書館プルンクザール」 の中を見学。

つづきます。「「国立図書館プルンクザール」を見学する

※追記:検索サイトで、「ウィーン ロブコヴィッツ宮」を見学すると、このページに飛んでしまうようですが、正しくは 「ウィーン 「ロブコヴィッツ宮殿」 と ベートーヴェン「英雄」 A Beethoven Walk - Palais Lobkowitz, Theatermuseum Vienna ★ナポレオンについて追記あり 2014/02/11」のページです。

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ウィーン王宮 スイス門、王宮礼拝堂、王宮宝物館

ウィーン王宮の地図 英雄広場からスイス門へ」のつづき。

「スイス門」(Schweizer Tor シュヴァイツァー・トーア, Swiss Gate)
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この先にある、「スイス宮」(Schweizertrakt, Swiss Wing)は、ホーフブルク王宮、最古の建築部分(Alte Burg, Old Fortress, 1250年以前)。

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ところで、1521年、神聖ローマ皇帝カール5世 (スペイン王としてはカルロス1世、Karl V., 1500-1558, 神聖ローマ皇帝在位:1519-1556)は、スペインに関する地位と領土は自らに。
オーストリアに関する地位と領土は、弟のフェルディナント1世 (Ferdinand I, 1503-1564、神聖ローマ皇帝在位:1556-1564)へと、ハプスブルク帝国を分割

その8年後の1529年、オスマン帝国(オスマン・トルコ)最盛期の皇帝、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍による 「第一次ウィーン包囲」 ウィーンは包囲されるも、カール5世の援軍もあり、オスマン帝国軍は撤退。

「スイス門」は、その23年後の1552年。 Pietro Ferabosco(ピエトロ・フェルベスコ)の設計によるもので、門の上には、鷲の紋章とともに、皇帝フェルディナンド1世によって1552年(Anno MDLII ※ローマ数字: M (=1000), D (=500), C (=100), L (=50))に建設されたことを示す碑文。

フェルディナント1世は、ここウィーンにオーストリア・ハプスブルク家を確立したことを、ここで高らかに宣言したものと思われます

1526年、婚姻関係を通じて、ボヘミア、ハンガリー王位も獲得。 ドイツの王権も実質的に行使しますが、オスマン帝国の脅威あり、ルター派との争いに巻き込まれるなど、激動の歴史を生き抜いた皇帝でした

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この門は、ウィーンでも数少ないルネサンス様式。 元々、控えめなブルーグレーとゴールドの外観でしたが、おそらく政治的なプロパガンダの意図で、赤と濃いグレイへと塗り替えられたであろうことが、近年の研究で判明。2006年9月に発表されました。
http://www.oeaw.ac.at/deutsch/aktuell/presse/detail/archive/2009/june/-/nobles-blaugrau-statt-rot-dunkelgrau-730.html

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スイス門の手前(以前は堀のあった入口)、写真に写っている右側のライオンは、現在はニーダーエスターライヒ州の紋章となっている、5つの鷲の、古いオーストリアの紋章 (Fünf-Adler-Wappen (Alt-Österreich))を掲げ、左側のライオンは、.新しいオーストリアの紋章 (Bindenschild (Neu-Österreich))を掲げています
http://www.burgen-austria.com/archive.php?id=209

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スイス門の天井の壁画。 旧オーストリア所領の紋章がフレスコ画で描かれている
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入って右側には、「大使の階段」"Botschafter Stiege" (ボートシャフター・シュティーゲ ambassador stairs) があり、
写真は、その左側にある階段。 この階段を上がったところに、1449年に建てられた 「王宮礼拝堂」"Burgkapelle" (Palace Chapel)
そして、この階段の下の一階には、「王宮宝物館」"Die Wiener Schatzkammer" (Imperial Treasury Museum)の入口あり
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ところが、「王宮宝物館」"Die Wiener Schatzkammer" (Imperial Treasury Museum) は、火曜定休。 この日は、残念ながら火曜日でした
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http://www.kaiserliche-schatzkammer.at
http://www.wiener-schatzkammer.at/imperial-treasury-vienna.html

ところで、通常、毎週日曜日のミサには、ウィーン少年合唱団の合唱ありhttp://www.hofburgkapelle.at/content/service/
2013年7月8月は、残念ながらクローズ中。
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大使の階段の反対側にある 「柱廊階段」の入口 Säulenstiege im Schweizertrakt der Hofburg
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:S%C3%A4ulenstiege_im_Schweizertrakt_der_Hofburg
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以上、http://www.hofburg-wien.at/en/things-to-know/vienna-hofburg/a-brief-history.html
http://www.hofburg.com/jart/prj3/hofburg/data/uploads/epaper/geschichte/index.html#/4
http://www.hofburg.com/jart/prj3/hofburg/data/uploads/epaper/geschichte/index.html#/8
http://www.burgen-austria.com/archive.php?id=209 など参照。

つづきます。「ウィーン王宮 ヨーゼフ広場、国立図書館プルンクザールへ

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ウィーン王宮の地図 英雄広場からスイス門へ

ウィーン新王宮 ヒトラーの演説、ハンナ・アーレントとSNS「いいね!」」のつづき。

ウィーン王宮 (Hofburg ホーフブルク宮殿) の地図。
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王宮礼拝堂 Burgkapelle の裏手にあった地図に加工。(※一部修正しました 2014/1/15)
01_white_and_green_round_point の地図真ん中にあるポイントで迷いました (ここのポイントから、ブルク公園に抜けられます)

ウィーン王宮は、中世の城塞から出発し、数々の増築を経た複合体。部屋の数は、約 2600!
http://www.hofburg.com/en/information/hofburg_and_vienna

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新王宮内には、国立図書館 Österreichische Nationalbibliothek の閲覧室のほか、いろんな博物館が入っている(地図参照)。

中でも私が注目したのは、新王宮内にある 「武器・甲冑コレクション」(火曜定休)
http://www.khm.at/en/visit/collections/collection-of-arms-and-armour/

それは、【超技巧】16世紀の「天才甲冑師 フィリッポ・ネグローリ」欧州国王たちから絶賛された史上最高の作品たち http://japan.digitaldj-network.com/articles/23262.html で紹介されていた甲冑。そこに施された細工の精巧さに圧倒されたから。

もうこれは、「人間国宝」の工芸品! 今でいえば、高級オートクチュール・ドレスの最高峰。 体にあわせたオーダー甲冑といえば、当時のステータスシンボルなのだ

しかも、ハプスブルク帝国だし。 そのコレクション・カタログ、特に16世紀の日の沈まないハプスブルク帝国全盛時代の甲冑をウェブで見たら、やっぱり凄くて驚いた
特に、遠目からも目立つであろう 「かぶりもの」

旅行のガイドブックでは、全く触れられていなくて見落とした 
Hofjagd- und Rüstkammer、英語では「Collection of Arms and Armour」。 和訳で「狩猟・武器コレクション」というよりは、「武器・甲冑コレクション」といったほうがピン とくると思うんだけど。

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「新宮殿」 (Neue Burg) のある 「英雄広場(ヘルデンプラッツ) Heldenplatz」 から、ブルク門 Äußeres Burgtor を見る。 左側にちょこっと写っているのは、さきほどの新王宮。想像したより広く感じる。
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ブルク門 Äußeres Burgtor は、ハプスブルク家皇帝のウィーンの居城 「ホーフブルク王宮(Hofburg)」へと続く外城門。 説明は、前に書いたエントリー記事「ウィーン 「マリア・テレジア像」、「ブルク門」 Maria-Theresien-Denkmal, Äußeres Burgtor (Wien)」を参照。

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オイゲン公騎馬像の反対側には、「イェイ!」と言っているように見えなくもない?(笑)、カール大公騎馬像。 右側に見える尖塔は、市庁舎の塔。
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カール大公 (Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen, 1771-1847 wiki) は、王宮中庭に像があった最後の神聖ローマ皇帝 (在位1792-1806) であり、最初のオーストリア皇帝フランツ1世 (Franz I., 在位1804-1835) となった、フランツ2世 (Franz II., 1768-1835) の弟。
アスペルン・エスリンクの戦い(1809年) で、カール大公率いるオーストリア軍が、皇帝ナポレオン率いるフランス軍に勝利したことで知られれている、オーストリアの功労者。

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ブルク門の反対側。 現在、オーストリア共和国の大統領府となっているレオポルド宮の外壁は工事中でした。
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王宮中庭につながる、1932年創業の最高級プチポワン「マリアシュトランスキー」(Maria Stransky) http://maria-stransky.jp/ や土産物店のあるアーケードを通って、再び王宮中庭。

右側には、スイス門。 マリア・テレジアの時代、スイス傭兵が警護していたことから名付けられたもので、1552年に作られた。
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スイス傭兵は、現在でもバチカンのスイス衛兵隊が有名だけど(wiki)、ハプスブルク帝国も警備していたとは

つづきます。「ウィーン王宮 スイス門、王宮礼拝堂、王宮宝物館

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ウィーン新王宮 ヒトラーの演説、ハンナ・アーレントとSNS「いいね!」

ウィーン王宮 ホーフブルク (Hofburg) を見学する」のつづき。
「新宮殿」 (Neue Burg) のある 「英雄広場(ヘルデンプラッツ) Heldenplatz」 へ。

「新宮殿」 (Neue Burg) 大きな弓形を描く建物。
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新宮殿の建設は1881年から1913年まで。 フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I. 1830-1916, オーストリア帝国、のちオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝在位 1848-1916) の治世の頃。
しかし、その内装工事が完了したのは 1923年。 すでにハプスブルク帝国が終焉 (1918年)を迎えてしまった後。 新宮殿は、帝国の「レジデンツ」(宮殿)として、本来の目的を果たせないまま・・・。 完成をみないまま亡くなった皇帝の心中、いかばかりだったことだろう。

建設当初は、壮大な「皇帝のフォーラム」(Kaiserforum, Imperial Forum)、古代ローマのフォロ・ロマーノ (ドイツ語で "Forum Romanum") のような大規模なプロジェクトを計画。 しかし、工期が第一次世界大戦にもつれ込んで中断。計画は未完に終わる。
http://www.khm.at/en/explore/angebote/renting-the-museum/neue-burg/
http://www.habsburger.net/en/chapter/glory-was-rome-franz-josephs-dream-imperial-forum?language=de
HOFBURG VIENNA "Unsere Geschichte, Our Histry" P.16, http://www.hofburg.com/en/information/hofburg_and_vienna History 参照。

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新王宮前のヘルデンプラッツ(Heldenplatz, 英雄広場) バルコニーの前には、オイゲン公の騎馬像 (1865年)。 「ベルヴェデーレ宮殿」を作ったオイゲン公については、以前書いた記事「ウィーン 「ベルヴェデーレ宮殿・上宮」 Schloss Belvedere ,「オイゲン公の冬の宮殿」 Winterpalais Prinz Eugen」、参照。

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さて、アドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler, 1889-1945) が、この新宮殿のバルコニーに立ち、「英雄広場」をびっしりと埋め尽くす市民に向かって、「ドイツによるオーストリア併合」(Der Anschluß アンシュルス, Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich)の演説をしたのは、1938年3月15日。
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ヒトラーによるドイツのオーストリア併合については、NHKのドキュメンタリー、NHKスペシャル 映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望で詳しく紹介されている。

旅行中、夫がこの番組の中で、バルコニーからヒトラーが演説していた映像があったというので、旅行後、夫が録画していたこの番組のビデオをじっくり視聴。

これによれば、ヒトラー 「わが闘争」(Mein Kampf)の冒頭で、「同一の血を持つ民族は、同一の国家に属するものとして、オーストリア帝国を含めて大ドイツ統一を実現する」という、オーストリア併合の夢が語られている。

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ヒトラーは、1889年、オーストリア、ドイツ国境の町 ブラウナウ Brauneu に生まれ、画家・建築家になることを夢見て、青春時代をオーストリアで過ごす。
第一次世界大戦 (1914-1918) での敗戦で、ドイツは莫大な賠償金を課されたうえ、1929年の世界恐慌の影響を受け、ドイツ経済は破綻。 そこに、「ドイツ民族の復興」というスローガンを掲げて民衆の支持を得たのが、ヒトラーの独裁政権。

ヒトラーは失業対策として、高速道路 「アウトバーン」を建設。民衆の手の届く価格の国産車「フォルクスワーゲン」(Volks = 国民、Wagen = 車)の設計をポルシェに依頼し大量生産。「ドイツ民族の復興」というスローガンを掲げた、巧みな演説アジテーションに民衆は熱狂。

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そして、「オーストリア在住のドイツ人が迫害されている」という理由で、1938年3月、オーストリア進駐。オーストリアのドイツ系住民はヒトラーを歓迎。武力衝突を起こすこともなく、不況に苦しむ民衆はナチス・ドイツに期待をかけた。

そして、1938年3月15日、オーストリアのウィーン新王宮のバルコニーに立つヒトラー。 英雄広場を埋め尽くす民衆の前で、オーストリア併合を宣言。
当時の写真は、http://www.thirdreichruins.com/vienna.htm

プロパガンダ映画による民衆誘導、疑いを差し挟むような言論、批判の自由を許さず、流れに乗って突き進んでしまう・・・。
本人たちは真面目でストイック。 純真に使命感に燃えているのが、なおさら怖い。

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ところで、去年、岩波ホールで見た映画 「ハンナ・アーレント」では、、旧ナチス高官アイヒマン裁判で、時代の支配的な空気に流されることなく論考、ニューヨーカーに傍聴記を連載した思想家、ハンナ・アーレントが、アイヒマンに同情的な反ユダヤ主義者と誤解され、周囲から孤立する姿が描かれていた。http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
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映画後半、教室での講義の中でアーレントは、「命令に従っただけ」というアイヒマンの弁解について、「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪」 として「悪の凡庸さ」を語り、思考する能力のない人間は、モラルまで判断不能となり、平凡な人間が残虐行為に至ると。

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空気を読んで、体制側、そして大衆に迎合するようなジャーナリズムは最悪だし、無批判のまま同調してしまう 「思考停止」 ほど怖ろしいものはない。ただ、これは反対側に立っても同じこと。

これは、メディアの誘導をはじめ、いろんな場面で、私たちが、今でも直面している課題だと思う。
身近なことでは、Facebook など SNS における 「いいね!」 同調、とか(笑)。

つづきます。「ウィーン王宮の地図 英雄広場からスイス門へ

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ウィーン王宮 ホーフブルク (Hofburg) を見学する 

ウィーン王宮 ミヒャエル広場のローマ遺跡」のつづき。

ウィーン王宮 (Hofburg ホーフブルク宮殿) http://www.hofburg-wien.at/en.html http://www.hofburg.com/
日本語ダウンロード用資料の地図に加工 (※一部修正しました 2014/1/15)
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ミヒャエル広場の王宮ファサード Michaelertrakt (St Michael Wing). フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I.) 治世下、1889年から1893年完成
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鉄の扉の装飾もおそろしく手が込んでいる 右はミヒャエル宮ドームに入ったところ。 右側、王宮見学の入口。
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11時頃、このドーム内の入口は長蛇の列

私たちは、事前に ウェブで 「シシィチケット」 (Sisi Ticket)を買っていたので、王宮中庭にあるカフェの隣の入口から、並ばず入れた

現地で入場券を購入する場合は、他の人たちが並んで待ってるドーム入口から入る必要があると思うけれども、すでにチケットがあれば、王宮中庭にあるカフェの隣の入口が断然オススメ

一般的な旅行ガイドブックには書いてなかったけれども、行列大嫌いの私。 ドーム内の入口にいた係員の人に、ネットで購入したシシィチケットのプリントアウトを見せて聞いたら、この別の入口を教えてくれました

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ドームを見上げると、こんな感じ。 写真右は、ドームをくぐった先。 馬車や車、自転車も通れるようになっている。
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旧王宮中庭。真ん中に、「フランツ2世像」。写真右側はドーム側で、「帝国官房宮」Imperial Chancellery Wing (1723-1730)。 神聖ローマ帝国の中枢だったが、1806年神聖ローマ帝国消滅に伴い、皇帝の住まいに改装。

正面は、16世紀に完成した「アマリエ宮」The Amalienburg (Amalia Residence)で、愛称シシィ、フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリーザベトの部屋があった場所。
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上の写真左側は、「レオポルド宮」Leopoldinischer Trakt (Leopoldine Wing)。あのベラスケスの絵で有名なスペインのマルガリータと結婚したレオポルト1世(Leopold I., 1640-1705, 神聖ローマ皇帝在位:1658-1705) の治世の頃に建築されるも火災で焼失。のち再建。
女帝マリア・テレジアは、このレオポルド宮に住んでいた そして現在、オーストリア共和国の大統領府。

※以上、王宮の歴史概要 http://www.hofburg-wien.at/en/things-to-know/vienna-hofburg/a-brief-history.html、公式ガイドブック参照。

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旧王宮中庭の真ん中にある、「フランツ2世像」
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最後の神聖ローマ皇帝 (在位1792-1806) であり、最初のオーストリア皇帝フランツ1世 (Franz I., 在位1804-1835) となった、フランツ2世 (Franz II., 1768-1835) の銅像。

ナポレオンに領土を蹂躙された上、娘をナポレオンの嫁に差し出さなければならなかった フランツ2世については、「ウィーン 「マリア・テレジア像」、「ブルク門」 Maria-Theresien-Denkmal, Äußeres Burgtor (Wien)」の記事参照。

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ウィーン・ホーフブルク王宮、もう一つの見学入口 事前にチケットを購入していて、ドーム内にある入口が行列していたら、この入口から入るべしです
かつては、神聖ローマ帝国の中枢だった 「帝国官房宮」Imperial Chancellery Wing (1723-1730)。彫刻の美しさもさることながら、風格を感じるファサード。
この入口上の屋根にあるのは、女帝マリア・テレジアの父、皇帝カール6世の紋章。
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近くにトイレあり。 入った先には、お土産屋さんがあって、日本語の公式ガイドブックを購入 EUR 7,90
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ホーフブルク王宮の見学コースは、銀器コレクション、シシィ・ミュージアム、皇帝の部屋とつづきます。日本語のオーディオガイドあり
※公式サイトのダウンロード資料 「ガイドツアー案内」(その1)(その2

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見学は、銀器コレクションから。 王室の食卓を彩ったであろう、ゴージャスで細工の美しい金色の燭台
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そして、膨大な食器の数々。日本の柿右衛門など東洋陶磁器のコレクションも多々
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次に、階段を上がって、シシィ・ミュージアムへ
シシィ・ミュージアムの中から、写真撮影禁止です

シシィ・ミュージアムでは、輿入れ時には、まだ16才 だった愛称シシィ、フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリーザベトの生涯をたどっていて、お召し列車の再現あり、ハンガリー女王として戴冠式に臨んだときのドレス等々もあり、予想をこえて面白かった。

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最後に、皇帝の部屋見学コースへ。 有名な皇妃エリーザベトの体操の部屋、等々。

印象に残ったのは、ディナールームの解説で、身分に従った男女交互の席順のほか、お皿が下げられるタイミング。 さらには、隣とだけ会話してよし、といった堅苦しい規則が定められていたこと。 これが毎回かと思うと、エリーザベトならずも放浪の旅へと逃避したくなってしまうやも・・・。

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ホーフブルク王宮の見学コースの出口は、バルハウスプラッツ (Ballhausplatz) の広場。 写真左は、向かいの総理府の建物。 写真右は、出口の隣にある大統領官邸の入り口と、再び旧王宮の中庭に入る入口。
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★シシィチケット Sisi Ticket 大人 (Erwachsene エアヴァクセネ) EUR 25,50 (2014/01現在)
 シェーンブルン宮殿 (Schloss Schönbrunn) のグランド・ツアー (Grand Tour) &オーディオガイド (全40室、約50分)のほか、旧王宮 (Hofburg Wien / 皇帝の部屋 (Kaiserappartements), シシィ・ミュージアム (Sisi Museum), 宮廷銀器コレクション Silberkammer)、 宮廷家具コレクション (Möbel Museum Wien) を見学できる。
 購入日から1年以内有効(各1回の見学)。並ばずに入場できるのが最大のメリット。
 公式サイト http://www.schoenbrunn.at/en.html の画面から、オンラインで購入可。

このホーフブルク宮殿の歴史を感じる貴重な博物館で、見学して本当に良かった

旧王宮の中庭のカフェのテラスで、先に見学を終え待っていた夫と合流。 ビールがうまい
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一息ついたところで、英雄広場(ヘルデンプラッツ) Heldenplatz

つづきます。「ウィーン新王宮 ヒトラーの演説、ハンナ・アーレントとSNS「いいね!」

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ウィーン王宮 ミヒャエル広場のローマ遺跡

2013/8/10(土)から8/18(日)までの、夫とのオーストリアのウィーンと、チェコのプラハへの個人旅行をひきつづき書いていきます。今年も宜しくお願い致します。
ウィーン散策 07 フェルステル宮殿、エステルハージ宮殿、コールマルクト通りから王宮へ」、ウィーン&プラハ旅行4日目(2013/8/13(火))のつづき。
★ウィーン個人旅行の全体ついては、「ウィーン・プラハ個人旅行 02 ウィーン編まとめ Journey to Vienna (Wien)

ウィーン王宮 (Hofburg ホーフブルク宮殿) http://www.hofburg-wien.at/en.html
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ウィーン王宮の建物の歴史は中世の城塞に遡り、現存する最古の部分は13世紀。

このミヒャエル広場に面した王宮ファサードは、1889年から1893年にかけて、フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I. 1830-1916, オーストリア帝国、のちオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝在位 1848-1916) 治世の時の作られたもの。 ゆるやかな弧を描く白亜のファサードには、美しい彫刻群。

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王宮前の 「ミヒャエル広場 (Michaelerplatz)」 にある、古代ローマ時代の遺跡 Ausgrabungen Michaelerplatz in Wien
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その昔、古代ローマ時代には、ウィーンの原型となった宿営地、 「ウィンドボナ」(Vindobona) がありました(wiki)。その最盛期は2世紀から3世紀中期頃。(以前書いた記事「ウィーン散策 05 ドナウ運河、エルサレムの階段、アンカー時計、古代ローマ都市「ウィンドボナ」(Vindobona)」参照)

そして、「ウィンドボナ」の「要塞」 (Legionslager, Legionary Fortress) のまわりは、入植地 Canabae (Lagervorstadt, Urban Settlement)。
このミヒャエル広場のローマ遺跡は、要塞の中央の道をまっすぐ南に行った先。 ちょうど道が交わった場所。
(古代) ローマ博物館 (Römermuseum)」の公式サイトで紹介されていたカタログ (Katalogansicht・カタログビュー) 26~29頁の地図参照。

ここに古代ローマの時代の住居があったことが、1989年から1991年にかけての考古学調査でわかりました。
http://www.wienmuseum.at/de/standorte/ansicht/ausgrabungen-michaelerplatz.html
http://www.wien-vienna.at/index.php?ID=783

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王宮前のファサードから、 「コールマルクト」(Kohlmarkt) 通りをながめる。
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左は、「ロースハウス」 (Looshaus, 1910-11) 。
先ほどの王宮の装飾、ユーゲントシュティル(アールヌーボー)とは対極に、装飾をそぎ落としたモダニズム建築の先駆け。 建築家アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870 - 1933) の設計。 建築当時は激しく非難されたらしい(Wiki)。

右は、ミヒャエル教会 Die Michaelerkirche

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このように、ウィーンの旧市街は、古代ローマ時代から、ハプスブルク家の統治していた中世、近世にかけての歴史を身近に感じられて面白かった。 

もっとも、ウィーン博物館の オンライン・コレクション http://sammlung.wienmuseum.at/eMuseumPlus summlung (ザンムルング collection) の19世紀の建築物の写真集は、戦前の古き佳きウィーンの雰囲気

それに比べてしまうと、今のウィーンは綺麗すぎかも。この後、破壊を免れ、中世の町並みが残るプラハの街を見たので、なおさら。ウィーンは、第二次大戦で数多くの建物が破壊、戦後に再建された歴史があるので仕方がないし、ここまで再建されたことに敬意を表するものではあるけれど・・・。

次に、「王宮 (Hofburg ウィーン・ホーフブルク王宮)」の中を見学。(日本語ダウンロード用資料

つづきます。「ウィーン王宮 ホーフブルク (Hofburg) を見学する

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