ウィーン グラーベン通り 「ペスト記念柱」、ウィンドボナ
「ウィーン散策 アルベルティーナ、ドロテウム、ユダヤ博物館 「ユダヤ人都市ウィーンとワーグナー展」」のつづき。
「グラーベン通り」 "Graben" 車両通行禁止の目抜き通り。 地図はこちら
グラーベン通りの中央には、巨大な 「ペスト記念柱」
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ところで、グラーベン通りの "Graben"= 溝の意味。
古代ローマ時代には、「ウィンドボナ」"Vindobona" という、現在のオーストリアの首都ウィーンの原型となった都市があり、ローマ帝国軍の要塞を囲む溝にあたる部分が、現在のグラーベン通りです。
古代ローマ時代の都市、「ウィンドボナ」"Vindobona"
★「(古代) ローマ博物館 (Römermuseum)」Katalogansicht (カタログビュー)に加工。
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グラーベン通りのシュテファン寺院側には、「レオポルドの泉」"Leopoldsbrunnen" (1804)
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「ペスト記念柱」"Die Pestsäule am Graben in Wien" 天使たちの彫像、上には、三位一体像。
レオポルト1世(Leopold I., 1640-1705, 神聖ローマ皇帝在位:1658-1705)の治世の頃、1679年のペストの大流行により、その犠牲者の、その正確な数はわからないものの、数万人に及ぶ命が奪われました。
ペスト記念柱は、ペストの終結を神に感謝し、レオポルド1世の命により建てられたもの。
ところで、ペストは終結したものの、ペスト大流行による国の弱体化を狙ってか、わずか数年後の1683年には、オスマン帝国の侵攻による 「ウィーン第2次包囲」にみまわれ、甚大な損害を受けてしまいます。
そのため、資金調達は困難をきわめ、1687年にやっと完成。 その後、いくつかの計画の変更を経て1693年、現在の姿として完成しました。
http://www.wien-konkret.at/sehenswuerdigkeiten/pestsaeule/
★ウィーンの歴史遺産リスト
http://de.wikipedia.org/wiki/Liste_der_denkmalgesch%C3%BCtzten_Objekte_in_Wien/Innere_Stadt/E%E2%80%93He
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シュテファン寺院のほうを眺める。 歴史ある建物が立ち並んでいます。
コールマルクト通りの近くには、地下の公衆トイレに通じる鉄柵あり。Damen = Ladies, Herrn = Gentlemen
その後、グラーベン通りの中程、右側に入ったところにある 「ペーター教会」。
バロック建築の粋を極めた教会内部を見学しました。
つづきます。「ウィーン 「ペーター教会」」
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