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プラハ 旧市街広場 03 「ヤン・フス像」

プラハ 旧市街広場 02 「聖ミクラーシュ教会」」のつづき。 地図は 「こちら」。

「ヤン・フス像」 (Pomniík Jana Husa, Jan Hus Monument) @旧市街広場
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ヤン・フス(Jan Hus, 1370年頃 - 1415年) は、ボヘミアにおける宗教改革で指導的立場に立った人物。wiki

ボヘミア南部フシネツ (Husinec) の貧しい農家出身のフスは、プラハ・カレル大学に進学。1409年、カレル大学総長となる。

その間、1402年、前掲、カレル4世の宮廷を辞しボヘミアで教会批判を展開していたクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去) の賛同者により 1394年に建立、チェコ語で説教が行われていた 「ベツレヘム礼拝堂 (ベトレーム礼拝堂 Betlémská kaple)」の説教師に。

イギリス・オックスフォード大学の哲学者、神学者で、カトリック教会の批判と改革に着手し、異端とされた宗教改革の先駆者、ジョン・ウィクリフ (John Wycliffe, 1320年頃 - 1384年)に、フスは共鳴。cute

フスは、収容人数 3,000人といわれるベツレヘム礼拝堂で、カトリック教会の堕落を糾弾、教会改革を訴えたほか、ローマ教皇のよる「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)の販売を批判annoy

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その当時は、「教会大分裂」(シスマ、The Great Schism)の時代。

「アヴィニョン捕囚」(Avignon Papacy, 1309年 - 1377年)のあと、ローマへ帰還した教皇庁の下で選出された教皇と、これを無効とするフランス、アヴィニョン教皇庁の下で選出された教皇、そして、この分裂を解消するため、1409年、ピサの公会議で新たに選出された教皇。
この 3人の教皇が並立 annoy 「神の代理人」たる教皇が 3人も存在する、というキリスト教的にはありえない事態に発展・・・sweat02

ピサ公会議で選出された教皇アレクサンデル5世の急死後、教皇位に就いたのが、ナポリの元海賊出身typhoon ともいわれるヨハネス23世。

このローマ教皇ヨハネス23世が、もう一人のローマ教皇グレゴリウス12世を庇護していたナポリ王ラディズラーオとの戦いのため十字軍を派遣。 かかるキリスト教徒同士の戦い、その戦費にあてようと、ローマ教皇ヨハネス23世の指示によって売り出された 「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)。dollar 贖宥状は、死んだ後、煉獄(天国と地獄の中間地点)から天国へ行けるよう、巡礼ができない者にも、罪の償いが軽減できるようにするもので、 この贖宥状の販売を、フスは批判したのでしたpunch

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この頃、ボヘミアを統治していたヴァーツラフ4世の異母弟にあたるジクムント (Zikmund, ドイツ名、ジギスムント Sigismund, 1368年 - 1437年) は、1410年、ドイツ王となりますが、前述のように3教皇並立のため混乱していたカトリック教会を統一し、いずれは神聖ローマ皇帝となる自らの権威を高揚させるため、そして、ボヘミアにおける教会改革論議に決着をつけるために、南ドイツ、コンスタンツでの公会議開催を呼びかけます。

そして、ジクムントは、フスに身柄の安全を保障した自由通行証を与え、コンスタンツ公会議に出席するよう要請。

しかし、フスは捕らえられ、コンスタンツ公会議において矯正不可能な異端者と宣告されてしまうのです。
そして、1415年7月6日、コンスタンツの市壁の外で火刑(火あぶりの刑)に処され、その灰は、ライン川に流されました。

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このフスの処刑に抗議し、フスを支持するフス派の人々はボヘミアで反乱を起こしますannoy

前述のコンスタンツ公会議において、教会大分裂の解消後に選出されたローマ教皇マルティヌス5世は、フス派討伐のため十字軍を何度も送るも、フス派が勝利sign03

★フス戦争については、「プラハ旧市街 散策マップ ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)、火薬塔 (Prašná brána)」の火薬塔の記載をどうぞ。

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その後、ボヘミアを統治したハプスブルク家、後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世 (Ferdinand II, 1578 - 1637, 神聖ローマ皇帝在位:1619 - 1637) は熱烈なカトリック教徒。

1617年、ボヘミア王として戴冠式をあげたフェルディナントによるボヘミアのカトリック化に反発した、フス派ををはじめとするプロテスタント諸身分。 その対立が先鋭化した1618年、「第二次プラハ窓外投擲事件」に端を発した 「30年戦争」(1618年から1648年) が勃発。

その30年戦争における 「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) において、ハプスブルク側が勝利。

1621年6月21日、このプラハの旧市街広場で、プロテスタントの反乱の首謀者、上級貴族3名、下級貴族7名、市民17名、合計27名が処刑されますtyphoon
そのうち12人の首は見せしめとしてカレル橋の塔に吊され、10年もの間そのまま放置。 1631年、プロテスタントのザクセン軍が一時プラハを支配したとき、ようやく下ろされティーン教会に埋葬。

その後もハプスブルク家の皇帝支配の下、カトリックによる 「反宗教改革」(対抗宗教改革) により、フス派をはじめとするプロテスタントは抑圧を受けました。

★エントリー記事:「プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠」参照。

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ところで、旧市街広場のフス像は、彫刻家ラジスラフ・シャウロン (Ladislav Šaloun, 1870 – 1946 wiki) 作。
チェコ民族運動の象徴であり、フスの火刑後500年目にあたる1915年7月6日、除幕式が行われました。

時まさに、第一次世界大戦 (1914-1918) のさなか、ハプスブルク家によるボヘミア王国の統治が終焉を迎える 1918年の、わずか3年前のことでした。

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=678830
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/other-points-of-interest/monuments-and-statues/ (チェコ語
薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)、薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」第4章、石川達夫著「黄金のプラハ―幻想と現実の錬金術 (平凡社選書)」111頁~113頁、129頁、佐藤優著「サバイバル宗教論」(文春新書、2014年)41頁~44頁、126頁~127頁、ジェームズ・R. ヴォールケル 著、林 大 翻訳「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)(大月書店 2010年) 148頁、参照。

今では平和で穏やかなプラハ、チェコ。 ルターによる宗教改革の約100年前から、宗教をめぐる対立、戦いの歴史があったとは・・・。 広場中央のフス像は、チェコの歴史を語るに欠かせぬ、重要な記念碑なのです。

つづきます。「プラハ 旧市街広場 04 「ゴルツ・キンスキー宮殿」

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