プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」
「プラハ 旧市街広場 05 「石の鐘の家」」のつづき。 地図は 「こちら」。
手前左から、「ティーン学校」(Tynska skola,Týn School)、「白い一角獣の家」(Dům u bílého jednorožce, The House at the White Unicorn)、その両者の背後にあるのが 「ティーン教会」
「ティーン教会」の正式名は、「ティーンの前の聖母マリア教会」(Kostel Matky Boží před Týnem, Church of Our Lady before Týn (Church of the Virgin Mary before Týn))。
ティーン (Týn) とは、壁で囲われた場所の意味。(The word týn means an enclosure, a fenced area, the former word otýniti used to mean to enclose.)。
「ティーンの前の聖母マリア教会」(Church of Our Lady before Týn) の名前は、濠と壁に囲まれ、街から隔離されていた、「ウンゲルト」(Ungelt) といわれた外国商人の居留地が、教会の背後にあったことに由来しています。
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商人は安全な場所でないと安心して商売できません。思うに、中世は今の100倍以上も物騒だと思われ・・・。
そこで、王様に、壁で囲まれた保護区域を作って守ってもらうかわりに、その入口に入るとき、手数料を支払う仕組みになっていました。
この手数料は、関税として強制的に徴収されるようになり、14世紀のはじめには、この関税は、古いドイツ語の言葉で 「ウンゲルト」と呼ばれるようになり、いつしか、この外国商人の居留地自体が 「ウンゲルト」(Ungelt) と呼ばれるようになったのでした。
★Ungelt - Týn Yard (Ungelt - Týnský Dvůr)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=48754(チェコ語)
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塔の高さは 80m。 塔が完成したのは、1511年、ヤゲヴォ家のヴラジスラフ (Vladislav Jagellonský, ボヘミア国王在位:1471年 - 1516年)の治世の頃。
尖塔と小尖塔の上には、金色に光る宝珠が置かれ、ライトアップで輝く姿の美しかったこと これは、また別エントリー記事で。
12世紀のはじめ、「ウンゲルト」(Ungelt) にはロマネスク様式の教会があり、今日のゴシック様式の教会は、神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. 神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の治世の1365年に建設がはじまりました。
そして、カレル4世の宮廷で活躍し、カレル橋などを作った建築家、彫刻家の ペトル・パルレーシュ(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330年頃から1399年)の影響を色濃く受けています。
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ティーン教会に入るには、手前左側の「ティーン学校」(Tynska skola,Týn School) の建物の中を通って行かなくてはなりません。 観光客がぞろぞろ歩いているので、通路はすぐにわかりました
教会の中は撮影禁止でしたので、写真はここまで。バーチャルツアー
ティーン学校は、ティーン教会によるラテン語の学校として、すでに13世紀に記録に登場。 カレル4世と父ヨハンの侍医、Master Walther も教師をつとめました。
http://www.praguecityline.cz/prazske-pamatky/tynska-skola-na-staromestskem-namesti
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ところで、「ティーン教会」は、かつてのチェコの宗教改革の先駆者、カレル4世の宮廷を辞しボヘミアで教会批判を展開していたクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去) らが説教師を努め、その後、フス派の主教会となり、フス派の大司教となったロキツァナ (Jan Rokycana, John of Rokycan (Rokycany) 1396 - 1471)も、ティーン教会で司祭をつとめました(注1)。
そして、フス派(聖杯派)がティーン教会を主教会とすると、VS カトリック側はプラハ城の聖ヴィート大聖堂を主教会にと、プラハの街は宗教的に分裂(注2)
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そして、30年戦争における 「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) において、ハプスブルク側が勝利すると、フス派をはじめとするプロテスタントは禁止され、ティーン教会もカトリック教会に
ティーン教会の塔の間の切り妻には、かつて、フス派の大司教となったロキツァナから国王就任の祝福を受けた、フス派の国王、ポジェブラディのイジー (Jiří z Poděbrad, George of Poděbrady, ボヘミア国王在位:1458- 1471) の像と、フス派のシンボル「聖杯」が掲げられていましたが、黄金の聖母マリア像に替えられてしまいました。。
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ところで、ティーン教会には、ルドルフ2世に仕えた天文学者、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe) が1601年に葬られています。
おととし、2012年、ティコ・ブラーエの遺跡の調査が行われ、彼は過度におしっこを我慢したがための尿毒症で亡くなった(注3)のではなく、慢性水銀中毒で亡くなったことが、死後400年以上たったけど、めでたく?実証されました。
http://www.tyn.cz/cz/index.php?stranka=zkoumn-ostatk-tycha-braha-2012
注1:石川達夫著「黄金のプラハ―幻想と現実の錬金術 (平凡社選書)」135頁。
注2:薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)69頁、185頁、193頁等。
注3:ジェームズ・R. ヴォールケル 著、林 大 翻訳「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)(大月書店 2010年) 」73頁、
田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」71頁、88頁。
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/123-our-lady-before-tyn-.shtml
Ungelt - Týn Yard http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=48754
http://www.tyn.cz/cz/index.php?stranka=historie-20100201
Wiki 参照。
見学は、火曜から土曜は 10:00 AM - 13:00 PM., 15:00 PM - 17:00 PM、日曜日は 10:00 AM - 正午まで
寄付ウェルカム (推奨 1 euro)
http://www.tyn.cz/cz/
http://www.tyn.cz/cz/index.php?stranka=informace-pro-nvtvnky
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