プラハ旧市街 散策マップ#1 ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)、火薬塔 (Prašná brána)
「プラハのホテル 「グランド・ホテル・ボヘミア」(Grand Hotel Bohemia, Prague)」のつづき。 2013/8/14、 夫とのプラハ旧市街の散策から再び書いて行きます。
★ウィーン・プラハ個人旅行 03 プラハ旅行編 まとめ記事 Journey to Prague (Praha)
★プラハ旧市街 散策マップ01 ※画像クリックで拡大 https://www.google.com/maps/ に加工。 ★「散策マップ02」 ★「プラハ建築散歩 散策マップ 03」 ★「旧市街 散策マップ04」
宿泊したホテルは 「グランド・ホテル・ボヘミア」(Grand Hotel Bohemia, Prague) http://www.grandhotelbohemia.cz/index.html チェックインの時間前に到着したので、ホテルに荷物を預け、プラハ旧市街を散策しました。
ホテルの玄関を出ると、右側斜向かいには、「ホテル・パジージュ」(Hotel Paříž Praha)。 英語名は、 「ホテル・パリ」(Hotel Paris Prague)。 1904年、当時を代表する建築家ヤン・ヴェイリフ (Jan Vejrych) によって建てられた、ネオ・ゴシック+アールヌーボー様式の建築物。 http://www.hotel-paris.cz/ja/
チェコの作家ボフミル・フラバル(Bohumil Hrabal) 著 「わたしは英国王に給仕した」の舞台となった最高級ホテル。のち映画化。
アール・ヌーボーの影響を受けた、玄関のモザイク装飾、壁のしっくい装飾が美しい。
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「グランド・ホテル・ボヘミア」 のあるブロックと 「ホテル・パジージュ」。共に向かいにある建物が、1911年(明治44年) に完成した「市民会館 (Obecní dům)」。 その入口は、ちょうど反対側。 プラハ滞在三日目に中を見学しました。
左側には外壁の装飾も凝っている 「市民会館」。右側は 「グランド・ホテル・ボヘミア」のあるブロック。 二つの建物に挟まれた道 U Prašné barány の先に見えているのが、「火薬塔」 (Prašná brána)。
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ところで、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の息子、ヴァーツラフ4世 (Václav IV. ドイツ名:ヴェンツェル、神聖ローマ皇帝在位:1376 - 1400年、ボヘミア国王在位:1378 - 1419年) は、1383年、プラハ城が火災にあったため、宮廷をプラハ城から旧市街に移し、この火薬塔の周辺に広大な王宮を創設。
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その後、チェコ語で説教をし、聖書をチェコ語に翻訳し始め、カトリック教会の改革を訴えたヤン・フス (Jan Hus, 1369年頃 - 1415年7月6日, Wiki) が、コンスタンツ公会議において矯正不可能な異端者と判断され、コンスタンツ郊外で火刑となる
★フスについては、後述 「プラハ 旧市街広場 03 「ヤン・フス像」」。
フスの処刑に抗議し、フスを支持するフス派メンバーのうち、修道士ヤン・ジェリフスキー (Jan Želivský, 1380 – 1422年3月9日) を中心とする急進派は、1419年7月30日、新市庁舎に投獄されたメンバーの釈放を求めたが拒否されたため、中に押し入り、市長を含む13名を窓から投げ落としたうえ殺害(第一次プラハ窓外投擲事件)。
・・・30年戦争の原因といわれる、1618年のプラハ城の窓外投擲事件より以前に、窓外投擲事件があったとは。。
国王ヴァーツラフ4世は事態の収拾を図れないまま、8月16日に死去・・・。
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翌1420年、教皇マルティヌスは、フス派を異端者として、これを征伐するよう全キリスト教国に勅書を発布。十字軍を差し向けるが、フス派が勝利
フス派戦争は、フス派の穏健派がカトリック教会に妥協し、急進派に勝利したことで終結に向かい、1436年「バーゼル協約」が結ばれ、ようやく終結。 正餐式において、従来パンだけ与えられていた信者に、神父と同様、ぶどう酒も与えられるべきとする二種正餐が容認された。この穏健派は二種正餐を最も重視していたので、「聖杯派」と呼ばれる
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その後、フス派に属するポジェブラディのイジーが国王となり、やがて第二次フス戦争が勃発
ポジェブラディのイジーが1471年病気で死去すると、ヤギェウォ家のポーランド王ジミェシュ4世(Kazimierz IV Jagiellończyk) と エリーザベト・フォン・ハプスブルク(Elisabeth von Habsburg)の息子、 ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー (Vladislav Jagellonský) がボヘミア王となる (在位:1471 - 1516年)。
1485年、クトナー・ホラで聖杯派とカトリック派の和解が成立(「クトナー・ホラの協定」)。両派併存が認められた
・・・もっとも、その後、カトリックがプロテスタントを弾圧したり、プロテスタントの中でも、ルター派とカルヴァン派とは反目したり。キリスト教の中でも、異質なものは排除したいものらしい。そして、いい加減に妥協しないと、国土が荒廃する事態にまで発展。「寛容」は、かくも難しいものなのか。
この一連のフス戦争は、マルティン・ルター(Martin Luther, 1483 - 1546) による「宗教改革」のように、ヨーロッパ全土を巻き込むような規模ではなかったが、その先駆とされている。
以上、薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)、薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」、佐藤優著「サバイバル宗教論」(文春新書、2014年)127頁、参照
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ところで、このヴラジスラフがボヘミア王となっていた1475年、前述の中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV.)によって作られた「新市街」 (Novém Městě) と「旧市街」(Starém Městě) を結ぶため、マチェイ・レイセク (Matej Rejsek) によってゴシック様式で造られた門が、「火薬塔」 (Prašná brána)。
そばの人物比でわかるように、かなりの大きさ。高さ65メートル。歴史を経た重厚さに圧倒されました
★「火薬塔」 (Prašná brána, The Powder Tower)
ところで、その昔、旧市街は市壁に囲まれ、その周りには濠が掘られ、外敵から身を守る要塞のようになっていた。
そこに全部で13個あった門は要塞の一部で、火薬塔の門は、現在 Na Příkopě (ナ・プシコピェ) 通りとなった濠に面して建てられた。
もっとも、前述のようにカレル4世によって1348年、「新市街」が作られたので、旧市街の要塞としての役割は無くなってしまうのだけど。。
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この門が作られたのは、火薬塔に隣接する、今の市民会館のあたりに広大な王宮があったので、立派な門を作る意味があったこと。又、火薬塔の門は、プラハ城へと至る戴冠式の行列の起点となった
ところが、1483年プラハで暴動が起きたため、ヴラジスラフ王は、旧市街からプラハ城へと王宮を移転。その後ハンガリーに移ってしまったため、塔の工事はストップ。1583年、ルドルフ2世が王宮をプラハ城に移した後の、1592年に完成。
カレル4世がペトル・パルレーシュ(Petr Parléř's)に建築を依頼して1380年に完成したカレル橋の旧市街側の橋塔にインスピレーションを受けたといわれる ・・・というより、現在の修復後の姿、特に塔の屋根は、旧市街側橋塔とほぼ同じ(笑)。修復前の火薬塔の絵を見ると、もうちょっとオリジナリティがあった(Wiki)のに。。
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その後、18世紀になると、この塔は火薬庫として使われ、現在の「火薬塔」の名前で呼ばれるように
そして、1757年、プラハ城外で行われた七年戦争におけるプロイセン軍とオーストリア軍との会戦(プラハの戦い)における銃撃戦で損傷。 19世紀の終わりに、J. Mockerによって再建。1880年代に修復
65メートルの高さの塔は展望台になっていて、186段の石段の螺旋階段あり。大人:90 CZK(2014年5月現在)。
http://en.muzeumprahy.cz/prague-towers/
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/60-powder-tower.shtml (チェコ語)
田中充子著「プラハを歩く (岩波新書)」68頁参照。
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その土地や建物の歴史は、知れば知るほど、その当時のことを想像でき、さらに興味がわいてきます。 いろんな本を読んで、その当時に描かれた絵を見るのも、まさにそのため。
そして、実際の風景や写真と重ね合わせて、たとえば映画のワンシーンのように、ニュース動画のように、頭の中でイメージを思い浮かべる。 もし、自分がその場に立ち会っていたら・・・とか。
ヨーロッパ、ことに今回行ったウィーンやプラハでは、その激動の歴史に思いを馳せながら、実際の風景をみて、肌でそれを感じることができ、むちゃくちゃ楽しかったです できれば、移住したいと思ったくらい
というわけで、ちょっと長くなってしまいますが、つづきます。「プラハ散策 ツェレトナー通り @王の道、黒い聖母の家 」
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