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2014年5月の10件の記事

プラハ 旧市庁舎と天文時計、ミュシャ 「黄道十二宮」

プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」」のつづき。 地図は 「こちら」。
プラハ個人旅行 まとめ記事

「プラハ旧市庁舎」 (Staroměstská radnice, Old Town Hall)
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旧市庁舎の「天文時計」 (Orloj, The Astronomical Clock)
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天文時計が作成されたのは、1410年。 1415年、ヤン・フスが処刑される前のこと。
カレル大学の教授をつとめた数学者、天文学者、ヤン・シンデル (Jan Šindel) の計算に基づき、時計職人カダンのミクラシュ(Mikuláš z Kadaně) によって作成されたといわれています。http://www.orloj.eu/en/orloj_osobnosti.htm

上の天文時計は、「プラネタリウム」。 天動説に基づき、地球を中心として、太陽、月、天体の運行するのを示しつつ、また、時刻、年月日までを示しながら、一年かけて一周するという、むちゃくちゃ複雑なもの。

しかも、驚くべきことに、日の出から日没までの時間まで測定される仕組みになっている、世界唯一の時計なんです http://www.praguewelcome.cz/cs/pamatky/pamatky/top-pamatky/5-staromestska-radnice-s-orlojem.shtml (チェコ語)

そして、下の天文時計は、「カレンダリウム」。 黄道12宮と、月々の農作業の絵が描かれ、一年かけて一周するもの。

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ところで、「黄道12宮」 といえば、ミュシャ (チェコ語でムハ、Alfons Mucha, 1860年 - 1939年)の絵が連想されます 私の大好きな絵 旧市庁舎の天文時計に着想を得たのでしょうか?
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この天文時計は、何度も修理、修復をくりかえし、第二次世界大戦のさなか、火災で破壊されるも、1948年に見事に修復されました

毎時間、朝9時から夜9時まで、ちっちゃな小窓から、キリストの12使徒の仕掛け人形が出てきます。でも、この人だかり 人形自体も小さいし、時計の真下に行かないと、よく見えません。写真も見事に取り損ねてます
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なお、この12使徒の人形と廻る仕掛けは、市庁舎見学で見ることができました

美しいだけでなく、複雑な機能をあわせもった、プラハの天文時計。 必見です

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旧市庁舎を、旧市街広場のティーン教会の塔とともに。 旧市庁舎の塔には、エレベーターで上れます。
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ところで、この旧市庁舎前の広場では、30年戦争 「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) のあとの、1621年6月21日、プロテスタントの反乱の首謀者、上級貴族3名、下級貴族7名、市民17名、合計27名が処刑されました。

しかも、そのうち 12人の首は、見せしめとしてカレル橋の塔に吊され、10年もの間そのまま放置されていたとは

★30年戦争については、「プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠

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さて、今のプラハ旧市街が建設されたのは、1235年。

ヴァーツラフ1世(Václav I, ボヘミア王在位:1230年 - 1253年) は、たびたび氾濫を引き起こすヴルタヴァ川(ドイツ語名、モルダウ川)の護岸工事を行い、地盤を上げるべく 2~3 m 土盛りをし、街の周囲を市壁で囲い、まわりに深い濠を堀って水を張り、都市整備。
その結果、市民は安全平和に暮らすことができ、商取引もさらに活発に行われるようになりました。

経済力をつけた市民は、治安を維持するための自治組織を設け、もめごとを裁定する場として、市庁舎の設置を王に請願。1338年、旧市街市庁舎を設立する許可をもらいます。

旧市庁舎は、市民の家を徐々に買い取り、増改築を繰り返し、今の姿となりました。

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まず、天文時計のすぐ左側。裕福な商人の「ヴォルフィン館」(Wolflinův dům)を購入。重厚なゴシック様式の入口、旧市街とボヘミア王国の紋章のある窓に注目です。

そこに、69.5m もの高さのゴシックの塔を建て、1364年完成。

そして、ヴォルフィン館の左隣、濃い赤茶色の「クシーシュ館」(Dům Kramáře Kříže)。

こちらは、金色の豪華な装飾のついた、ルネッサンス様式の3つの窓に注目。市壁の上に白いライオン、皇帝の冠のある「プラハ旧市街の紋章」と、"PRAGA CAPUT REGNI"(プラハ、王国の首都) と書かれた碑文が掲げられています。

この下の入口が旧市庁舎の入口になっていて、プラハ3日目、旧市庁舎の中を見学しました。 旧市庁舎の地下もたっぷり見学できてオススメ。 これは、別のエントリー記事で。

★公式サイト http://www.staromestskaradnicepraha.cz/en/
★TOP MONUMENTS - OLD TOWN HALL AND THE ASTRONOMICAL CLOCK
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/58-old-town-hall-and-the-astronomical-clock.shtml (チェコ語
★プラハ旧市街広場の建物の名前は、Jiří Stratil さんのブログ blog.iDNES.cz の記事
http://stratil.blog.idnes.cz/c/404184/Jake-nesou-nazvy-domy-Staromestskeho-namesti.html、それから、http://stratil.blog.idnes.cz/c/404391/Vzacnosti-z-pruceli-Staromestske-radnice.html
建物の写真もあって、大変参考になりました。しかも、
★OLD TOWN SQUARE (STAROMĚSTSKÉ NÁMĚSTÍ)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42754 の建物番号と同じというわかりやすさで、素晴らしい!
チェコ語は、Google Chrome の日本語翻訳のお世話になりました

田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」75~76頁、石川達夫著「黄金のプラハ―幻想と現実の錬金術 (平凡社選書)」129頁、参照。
プラハのシンボル! 旧市庁舎の「天文時計」 [チェコ] All About

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ところで、スグラフィットの絵のある 「一分の家」(ミヌタ館, Dům U Minuty, The House at the Minute) は、1896年、プラハ市に買い取られ、旧市庁舎に新たに付け加えられました。

なんとこの家、1889年から1896年にかけ、作家のフランツ·カフカが両親と住んでいた家なんです

★THE HOUSE AT THE MINUTE (DŮM U MINUTY)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=58974

長くなるので、これは次の記事で。

つづきます。「プラハ 一分の家 (ミヌタ館)、カフカ幼少時代の家

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プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」

プラハ 旧市街広場 05 「石の鐘の家」」のつづき。 地図は 「こちら」。

手前左から、「ティーン学校」(Tynska skola,Týn School)、「白い一角獣の家」(Dům u bílého jednorožce, The House at the White Unicorn)、その両者の背後にあるのが 「ティーン教会」
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「ティーン教会」の正式名は、「ティーンの前の聖母マリア教会」(Kostel Matky Boží před Týnem, Church of Our Lady before Týn (Church of the Virgin Mary before Týn))。

ティーン (Týn) とは、壁で囲われた場所の意味。(The word týn means an enclosure, a fenced area, the former word otýniti used to mean to enclose.)。

「ティーンの前の聖母マリア教会」(Church of Our Lady before Týn) の名前は、濠と壁に囲まれ、街から隔離されていた、「ウンゲルト」(Ungelt) といわれた外国商人の居留地が、教会の背後にあったことに由来しています。

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商人は安全な場所でないと安心して商売できません。思うに、中世は今の100倍以上も物騒だと思われ・・・。

そこで、王様に、壁で囲まれた保護区域を作って守ってもらうかわりに、その入口に入るとき、手数料を支払う仕組みになっていました。

この手数料は、関税として強制的に徴収されるようになり、14世紀のはじめには、この関税は、古いドイツ語の言葉で 「ウンゲルト」と呼ばれるようになり、いつしか、この外国商人の居留地自体が 「ウンゲルト」(Ungelt) と呼ばれるようになったのでした。
★Ungelt - Týn Yard (Ungelt - Týnský Dvůr)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=48754(チェコ語)

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塔の高さは 80m。 塔が完成したのは、1511年、ヤゲヴォ家のヴラジスラフ (Vladislav Jagellonský, ボヘミア国王在位:1471年 - 1516年)の治世の頃。

尖塔と小尖塔の上には、金色に光る宝珠が置かれ、ライトアップで輝く姿の美しかったこと これは、また別エントリー記事で。
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12世紀のはじめ、「ウンゲルト」(Ungelt) にはロマネスク様式の教会があり、今日のゴシック様式の教会は、神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. 神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の治世の1365年に建設がはじまりました。

そして、カレル4世の宮廷で活躍し、カレル橋などを作った建築家、彫刻家の ペトル・パルレーシュ(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330年頃から1399年)の影響を色濃く受けています。

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ティーン教会に入るには、手前左側の「ティーン学校」(Tynska skola,Týn School) の建物の中を通って行かなくてはなりません。 観光客がぞろぞろ歩いているので、通路はすぐにわかりました

教会の中は撮影禁止でしたので、写真はここまで。バーチャルツアー
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ティーン学校は、ティーン教会によるラテン語の学校として、すでに13世紀に記録に登場。 カレル4世と父ヨハンの侍医、Master Walther も教師をつとめました。

http://www.praguecityline.cz/prazske-pamatky/tynska-skola-na-staromestskem-namesti

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ところで、「ティーン教会」は、かつてのチェコの宗教改革の先駆者、カレル4世の宮廷を辞しボヘミアで教会批判を展開していたクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去) らが説教師を努め、その後、フス派の主教会となり、フス派の大司教となったロキツァナ (Jan Rokycana, John of Rokycan (Rokycany) 1396 - 1471)も、ティーン教会で司祭をつとめました(注1)。

そして、フス派(聖杯派)がティーン教会を主教会とすると、VS カトリック側はプラハ城の聖ヴィート大聖堂を主教会にと、プラハの街は宗教的に分裂(注2)

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そして、30年戦争における 「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) において、ハプスブルク側が勝利すると、フス派をはじめとするプロテスタントは禁止され、ティーン教会もカトリック教会に

ティーン教会の塔の間の切り妻には、かつて、フス派の大司教となったロキツァナから国王就任の祝福を受けた、フス派の国王、ポジェブラディのイジー (Jiří z Poděbrad, George of Poděbrady, ボヘミア国王在位:1458- 1471) の像と、フス派のシンボル「聖杯」が掲げられていましたが、黄金の聖母マリア像に替えられてしまいました。。

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ところで、ティーン教会には、ルドルフ2世に仕えた天文学者、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe) が1601年に葬られています。
おととし、2012年、ティコ・ブラーエの遺跡の調査が行われ、彼は過度におしっこを我慢したがための尿毒症で亡くなった(注3)のではなく、慢性水銀中毒で亡くなったことが、死後400年以上たったけど、めでたく?実証されました。
http://www.tyn.cz/cz/index.php?stranka=zkoumn-ostatk-tycha-braha-2012

注1:石川達夫著「黄金のプラハ―幻想と現実の錬金術 (平凡社選書)」135頁。
注2:薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)69頁、185頁、193頁等。
注3:ジェームズ・R. ヴォールケル 著、林 大 翻訳「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)(大月書店 2010年) 」73頁、
田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」71頁、88頁。
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/123-our-lady-before-tyn-.shtml
Ungelt - Týn Yard http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=48754
http://www.tyn.cz/cz/index.php?stranka=historie-20100201
Wiki 参照。

見学は、火曜から土曜は 10:00 AM - 13:00 PM., 15:00 PM - 17:00 PM、日曜日は 10:00 AM - 正午まで
寄付ウェルカム (推奨 1 euro)
http://www.tyn.cz/cz/
http://www.tyn.cz/cz/index.php?stranka=informace-pro-nvtvnky

つづきます。「プラハ 旧市庁舎と天文時計、ミュシャ 「黄道十二宮」

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プラハ 旧市街広場 05 「石の鐘の家」、特別展 「ティム・バートンの世界」 Exhibition: The World of Tim Burton

プラハ 旧市街広場 04 「ゴルツ・キンスキー宮殿」」のつづき。 地図は 「こちら」。

「石の鐘の家」(Dům U Kamenného zvonu, The House at the Stone Bell)
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「石の鐘の家」は、プラハで最も古い歴史ある建物の一つ。

おそらく、13世紀後半と14世紀前半、かつてのボヘミア王室の宮殿。 カレル4世の母、プシェミスル家のエリシュカ (Eliška Přemyslovna) のために建てられたもの。

1310年、このエリシュカと結婚、ボヘミア王となるルクセンブルク家のヨハンは、自ら率いてきた軍隊で騒乱を解決、 プラハの街に平和をもたらします。 このとき、司祭は鐘を叩き、これを知らしめたのでした。 建物の角にある石の鐘は、おそらく、これにちなんだ記念物。

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1333年、このエリシュカとヨハンの息子、カレル4世は、親と離れて暮らしていたフランスの宮廷から、プラハに帰郷。

このとき、城は荒れたまま。 そのため、カレル4世は、すでに亡くなっていた母親がかつて住んでいた「石の鐘の家」に住んでいたであろうことが、ズブラスラフ年代記(Zbraslav Chronicle)に記されています。

そして、その後のカレル4世。 対立候補がいたものの、フランス宮廷時代のコネを使って、神聖ローマ皇帝カレル4世へと昇格!(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、カレル1世としてボヘミア国王在位:1346 - 1378年)

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1344年、カレル4世は、ドイツのマインツ大司教座の下に置かれていたプラハの教会を、独立した「大司教区」にまで昇格させます。
同年1344年、プラハ城の城壁内の「聖ヴィート大聖堂」を、今日あるゴシック様式へと再建開始。

1348年、「新市街」を創設、礎石を置く。
同年1348年、ライン川以東の神聖ローマ帝国の領域において、最古の大学となる 「プラハ大学」(正式には創設者の名前にちなんで 「カレル大学」(Univerzita Karlova, Charles University in Prague))を創立。

1356年、神聖ローマ帝国の選挙規定などを定めた「金印勅書」を発布。
1357年、「カレル橋」の建設を開始。

以上のように、カレル4世は中世チェコの最盛期を築いていったわけですが、この石の鐘の家は、カレル4世による、プラハ再生のスタート地点として、重要な意味を持つのです。

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ところで、「石の鐘の家」は、元はゴシック様式の建物。 その後、何度か改修され、1685年のバロック様式への改修もその一つ。 1899年には、ネオ・バロック様式のファサードに改修されます。

しかし、1961年の改修中、オリジナルのゴシック様式の姿に戻すことに決定。1988年に完成。

現在は、プラハ市立ギャラリー (Dům U Kamenného zvonu, City Gallery of Prague) 。
http://www.citygalleryprague.cz/cs/web/guest/galerijn-objekty


時間がなく実際のところは入らなかったのだけれど、ヴァーチャルツアーで地下を見学もあり、なかなか楽しそう
http://www.virtualtravel.cz/praha/stare-mesto/dum-u-kamenneho-zvonu.html

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=43824
http://www.citygalleryprague.cz/cs/web/guest/objekt-detail/-/objekty/detail/11170
★薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)41頁~62頁 参照。

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一般的なガイドブックには書いていませんが、まさか、13世紀~14世紀の中世の姿に戻し、地下まで展示されているとは!!

それに加えて、現在、特別展、「ティム・バートンの世界」 "The World of Tim Burton" (2014/3/28 - 2014/8/3、火曜から日曜、10時から夜8時) が開催中

http://www.timburton.cz/
・・・この冒頭の動画も良いなぁ~ できれば見に行きたいぃぃ!!
http://www.praguepost.com/night-day/38024-exhibition-the-world-of-tim-burton-opens-in-prague

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でも、さすがに、チェコ2年連続海外旅行は無いだろう・・・(悲)、と思っていたら、

この、「ティムバートンの世界」展、なんと、日本でも開催されることが判明!!!

2014/11/1(土)-2015/1/4(日)まで (会期中無休)、六本木ヒルズ森タワー52階「森アーツセンターギャラリー」にて。
スケッチやデッサン、未公開の映像作品、オブジェなど約500点、日本初公開☆

「チャーリーとチョコレート工場」の映画監督だけに、とっても楽しみです

http://www.tim-burton.jp/

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旅行記からは、ちょっと脱線してしまいましたが、特別展も要チェック!の「石の鐘の家」でした

つづきます。「プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」

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プラハ 旧市街広場 04 「ゴルツ・キンスキー宮殿」

プラハ 旧市街広場 03 ヤン・フス像」のつづき。 地図は 「こちら」。

「旧市街広場」、左から 「ゴルツ・キンスキー宮殿」、「石の鐘の家」、「ティーン学校」、「白い一角獣の家」、そして、ティーン学校と白い一角獣の家の背後にあるのが、「ティーン教会」。
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「ゴルツ・キンスキー宮殿」 (Palác Golz-Kinských, the Golz-Kinsky Palace)
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「ゴルツ・キンスキー宮殿」は、「キンスキー宮殿」(Palác Kinských, Kinsky Palace) とも呼ばれています。

ロココ様式の華麗な建物は、ゴルツ伯爵 (Jan Arnošt Golz) のために、先ほどの旧市街広場の「聖ミクラーシュ教会」と同じく、バロックの建築家、キリアーン・イグナーツ・ディーンツェンホーファー (Kilián Ignác Dientzenhofer, 1689-1751)と、彼の死後、これを受け継いだ、彼の弟子で娘婿のイタリア人建築家、アンセルモ・ルラーゴ(Anselm Lurago)の設計により、1755年から1765の間に建造されました。

そして、ゴルツ伯爵が亡くなった後、1768年にキンスキー侯爵 (František Oldřich Count Kinský) が、この宮殿を購入。

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キンスキー家は、といえば、ウィーン、フライウング (Freyung 4, Wien) にある 「キンスキー宮殿」 (Palais Kinsky (Wien)) も、1784年に購入。
http://www.palaisevents.at/palaisdaunkinsky.html←まるで夢のように豪華な建物。

キンスキー伯爵 (Ferdinand von Kinsky, 1781 - 1812) は、ルドルフ大公 (Rudolph von Österreich, 1788 –1831, 神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子)、ロブコヴィッツ (ロプコヴィッツ Lobkowitz) 家の第7代、フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ (Franz Joseph Maximilian Fürst von Lobkowitz, 1772-1816, チェコ語で、Joseph František Maximilian) とともに、ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770-1827) に年金を保証しています(wiki)。
★以前書いたエントリー記事、「ウィーン 「ロブコヴィッツ宮殿」 と ベートーヴェン「英雄」

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ところで、このキンスキー宮殿の2階には、かつて、作家フランツ・カフカ (Franz Kafka, 1883 - 1924) が1893年から1900年の間に通ったドイツ系ギムナジウム (Německém státním gymnáziu, The German gymnasium) があり、1階には、彼の父が経営していた小間物服飾の店がありました。
http://www.kafkamuseum.cz/ShowPage.aspx?tabindex=3&tabid=5

現在は、チェコ国立博物館の東洋美術、古代美術コレクション("The Art of Asia" and "The Art of the Ancient World")の常設展が開催されています。http://www.ngprague.cz/en/objekt-detail/kinsky-palace/

以上、http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=45691参照

ベートーヴェンを支援したキンスキー家、作家カフカと、ネタがいっぱい(笑)のキンスキー宮殿でした。

つづきます。「プラハ 旧市街広場 05 「石の鐘の家」

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プラハ 旧市街広場 03 「ヤン・フス像」

プラハ 旧市街広場 02 「聖ミクラーシュ教会」」のつづき。 地図は 「こちら」。

「ヤン・フス像」 (Pomniík Jana Husa, Jan Hus Monument) @旧市街広場
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ヤン・フス(Jan Hus, 1370年頃 - 1415年) は、ボヘミアにおける宗教改革で指導的立場に立った人物。wiki

ボヘミア南部フシネツ (Husinec) の貧しい農家出身のフスは、プラハ・カレル大学に進学。1409年、カレル大学総長となる。

その間、1402年、前掲、カレル4世の宮廷を辞しボヘミアで教会批判を展開していたクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去) の賛同者により 1394年に建立、チェコ語で説教が行われていた 「ベツレヘム礼拝堂 (ベトレーム礼拝堂 Betlémská kaple)」の説教師に。

イギリス・オックスフォード大学の哲学者、神学者で、カトリック教会の批判と改革に着手し、異端とされた宗教改革の先駆者、ジョン・ウィクリフ (John Wycliffe, 1320年頃 - 1384年)に、フスは共鳴。

フスは、収容人数 3,000人といわれるベツレヘム礼拝堂で、カトリック教会の堕落を糾弾、教会改革を訴えたほか、ローマ教皇のよる「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)の販売を批判

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その当時は、「教会大分裂」(シスマ、The Great Schism)の時代。

「アヴィニョン捕囚」(Avignon Papacy, 1309年 - 1377年)のあと、ローマへ帰還した教皇庁の下で選出された教皇と、これを無効とするフランス、アヴィニョン教皇庁の下で選出された教皇、そして、この分裂を解消するため、1409年、ピサの公会議で新たに選出された教皇。
この 3人の教皇が並立  「神の代理人」たる教皇が 3人も存在する、というキリスト教的にはありえない事態に発展・・・

ピサ公会議で選出された教皇アレクサンデル5世の急死後、教皇位に就いたのが、ナポリの元海賊出身 ともいわれるヨハネス23世。

このローマ教皇ヨハネス23世が、もう一人のローマ教皇グレゴリウス12世を庇護していたナポリ王ラディズラーオとの戦いのため十字軍を派遣。 かかるキリスト教徒同士の戦い、その戦費にあてようと、ローマ教皇ヨハネス23世の指示によって売り出された 「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)。 贖宥状は、死んだ後、煉獄(天国と地獄の中間地点)から天国へ行けるよう、巡礼ができない者にも、罪の償いが軽減できるようにするもので、 この贖宥状の販売を、フスは批判したのでした

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この頃、ボヘミアを統治していたヴァーツラフ4世の異母弟にあたるジクムント (Zikmund, ドイツ名、ジギスムント Sigismund, 1368年 - 1437年) は、1410年、ドイツ王となりますが、前述のように3教皇並立のため混乱していたカトリック教会を統一し、いずれは神聖ローマ皇帝となる自らの権威を高揚させるため、そして、ボヘミアにおける教会改革論議に決着をつけるために、南ドイツ、コンスタンツでの公会議開催を呼びかけます。

そして、ジクムントは、フスに身柄の安全を保障した自由通行証を与え、コンスタンツ公会議に出席するよう要請。

しかし、フスは捕らえられ、コンスタンツ公会議において矯正不可能な異端者と宣告されてしまうのです。
そして、1415年7月6日、コンスタンツの市壁の外で火刑(火あぶりの刑)に処され、その灰は、ライン川に流されました。

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このフスの処刑に抗議し、フスを支持するフス派の人々はボヘミアで反乱を起こします

前述のコンスタンツ公会議において、教会大分裂の解消後に選出されたローマ教皇マルティヌス5世は、フス派討伐のため十字軍を何度も送るも、フス派が勝利

★フス戦争については、「プラハ旧市街 散策マップ ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)、火薬塔 (Prašná brána)」の火薬塔の記載をどうぞ。

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その後、ボヘミアを統治したハプスブルク家、後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世 (Ferdinand II, 1578 - 1637, 神聖ローマ皇帝在位:1619 - 1637) は熱烈なカトリック教徒。

1617年、ボヘミア王として戴冠式をあげたフェルディナントによるボヘミアのカトリック化に反発した、フス派ををはじめとするプロテスタント諸身分。 その対立が先鋭化した1618年、「第二次プラハ窓外投擲事件」に端を発した 「30年戦争」(1618年から1648年) が勃発。

その30年戦争における 「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) において、ハプスブルク側が勝利。

1621年6月21日、このプラハの旧市街広場で、プロテスタントの反乱の首謀者、上級貴族3名、下級貴族7名、市民17名、合計27名が処刑されます
そのうち12人の首は見せしめとしてカレル橋の塔に吊され、10年もの間そのまま放置。 1631年、プロテスタントのザクセン軍が一時プラハを支配したとき、ようやく下ろされティーン教会に埋葬。

その後もハプスブルク家の皇帝支配の下、カトリックによる 「反宗教改革」(対抗宗教改革) により、フス派をはじめとするプロテスタントは抑圧を受けました。

★エントリー記事:「プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠」参照。

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ところで、旧市街広場のフス像は、彫刻家ラジスラフ・シャウロン (Ladislav Šaloun, 1870 – 1946 wiki) 作。
チェコ民族運動の象徴であり、フスの火刑後500年目にあたる1915年7月6日、除幕式が行われました。

時まさに、第一次世界大戦 (1914-1918) のさなか、ハプスブルク家によるボヘミア王国の統治が終焉を迎える 1918年の、わずか3年前のことでした。

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=678830
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/other-points-of-interest/monuments-and-statues/ (チェコ語
薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)、薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」第4章、石川達夫著「黄金のプラハ―幻想と現実の錬金術 (平凡社選書)」111頁~113頁、129頁、佐藤優著「サバイバル宗教論」(文春新書、2014年)41頁~44頁、126頁~127頁、ジェームズ・R. ヴォールケル 著、林 大 翻訳「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)(大月書店 2010年) 148頁、参照。

今では平和で穏やかなプラハ、チェコ。 ルターによる宗教改革の約100年前から、宗教をめぐる対立、戦いの歴史があったとは・・・。 広場中央のフス像は、チェコの歴史を語るに欠かせぬ、重要な記念碑なのです。

つづきます。「プラハ 旧市街広場 04 「ゴルツ・キンスキー宮殿」

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プラハ 旧市街広場 02 「聖ミクラーシュ教会」

プラハ ツェレトナー通りの抜け道、旧市街広場 01 「シュトルフ館」 聖ヴァーツラフの壁画」のつづき。世界中から集まってきた観光客でいっぱいの 「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí) です。 地図は 「こちら」。

「プラハ旧市庁舎」 (Staroměstská radnice, Old Town Hall)
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田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」76頁によると、14世紀から19世紀の様式の異なる建物の集合体である旧市庁舎は、第二次世界大戦の直前に、市庁舎の北側部分が、ナチス・ドイツの爆撃を受けて瓦解。その後、再建に向けて設計コンペが行われたが結論が出ず、そのまま残されているとか。

破壊以前の写真を見ると、破壊された市庁舎北側部分は、ネオ・クラシック様式のかなり大きな建造物でした。

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この「旧市庁舎」から、視線を右に移動して行きます。

旧市街の「聖ミクラーシュ教会」(Kostel svatého Mikuláše (Staré Město), St. Nicholas Church (Old Town Square)
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「聖ミクラーシュ教会」、英語では、聖ニコラス教会は、プラハの旧市街地エリアで最も古い教会の一つ。公式サイトによれば、これが記録に登場するのは 1273年。

ここでは、14世紀、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の宮廷に仕えるも、のちに職を辞し、説教師となって教会批判を行ったクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去) 、その他、教会改革を唱えたフス派の人々によって説教が行われました

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ところが、「白山の戦い」(1620年)でハプスブルク皇帝側が勝利すると、ハプスブルクの皇帝の権力と同盟した反宗教改革によって、フス派をはじめとするプロテスタントは弾圧されてしまいます。

そして、1635年、ベネディクト会の所有となり修道院が建てられました。

その後、ボヘミアの有名なバロックの建築家、キリアーン・イグナーツ・ディーンツェンホーファー (Kilián Ignác Dientzenhofer, 1689-1751) の設計により、バロック様式の教会として再築 (1732 - 1735)
ちなみに、同じ名前の教会、カレル橋を渡った先のマラー・ストラナ(小地区 Mala Strana, Little Quarter)にある「聖ミクラーシュ教会」も、同じく キリアーン・イグナーツ・ディーンツェンホーファー の設計によりバロック様式に改築されました。

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第一次世界大戦(1914年から1918年)が終結、ハプスブルク家によるボヘミア王国の統治が終焉を迎える 1918年、チェコスロバキアが独立。
1920年、チェコのローマ・カトリックの司祭だった Karel Farský (1880–1927) は、カトリック教会から独立した新しい教会を、この聖ミクラーシュ教会の中に創設することを宣言。1971年には、「チェコスロバキア・フス派教会」(the Czechoslovak Hussite Church)を名乗り、現在に至っています。

内部には美しい天井画があり、コンサート http://www.svmikulas.cz/en/concerts も開催

★公式サイト http://www.svmikulas.cz/en

http://www.praguewelcome.cz/en/visit/about-prague/famous-persons/94-dientzenhofer-kilian-ignaz.shtml (チェコ語版)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42614 Wiki
薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」101頁参照。

なお、チェコの伝統的な聖ニコラウス・デーのイヴは、12月5日。
聖ニコラウスは、サンタクロースのような格好をして、天使と悪魔を連れ歩き、いい子供には贈り物を配る習慣があるそうです
http://www.svmikulas.cz/en/stnicolas-day
http://www.myczechrepublic.com/czech_culture/czech_holidays/saint_nicholas.html


つづきます。「プラハ 旧市街広場 03 「ヤン・フス像」

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プラハ ツェレトナー通りの抜け道、旧市街広場 01 「シュトルフ館」 聖ヴァーツラフの壁画

プラハ散策 モーツァルトと 「スタヴォフスケー劇場」(エステート劇場)」のつづき。
プラハ個人旅行 まとめ記事

再びキュービズム建築の 「黒い聖母の家」から、その昔、戴冠式の行進が行われた「王の道」、「ツェレトナー通り」 (Celetná)を通って、 「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí) へ。 地図は 「こちら」。

外壁には美しいレリーフ、玄関には彫刻が施された、歴史ある建築物が立ち並ぶ 「ツェレトナー通り」 (Celetná)。
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「男像柱」(アトラス, atlas or teramon) が入口の左右に施され、外壁のレリーフも美しい、 「ツェレトナー通り」沿いの建築物 (Celetná 558/12)。 
ここは、抜け道のようなパッサージュ(アーケード, Pasáž)、"Pasáž Celetná 12" の入口になっていて、迷路のような路地散策も楽しめました http://www.atlasceska.cz/praha/pasaz-celetna-12/ これは後ほど別記事で。
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「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí, Old Town Square) に到着。

まず、 「旧市庁舎」(Staroměstská radnice, Old Town Hall )http://www.staromestskaradnicepraha.cz/、1364年に完成した 69.5m もの高さのゴシック様式。この中世の塔が、まっさきに目に入る。
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ところで、私がプラハ旧市街に大興奮。 写真を撮りまくっていた頃。 ここに写っている広場のレストランのテラス席で、夫は一人、ビールを飲んでおりました。 しかも、私に一言も告げないままに・・・。

おそらく、本場チェコ・ビールが飲みたい、タバコが吸いたい限界値に達していたのだと思われ

夫の姿が見えないことに気づいて、あわてて夫に携帯電話をかけた私。 その後、合流しましたが、それほど、プラハ旧市街に魅了されっぱなしの私でした

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「旧市街広場」 の入口。 写真左は、広場南西側にある 「シュトルフ館」 (Štorchův dům) の 「聖ヴァーツラフ」 (Svatý Václav, Wenceslaus I)の壁画。
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「シュトルフ館」は、1896年から1897年にかけて、プラハで出版社・書店を開業していたシュトルフ親子 (Alexander Štorch and his son) のために改修された建築物。

以前は、ここに「石の聖母マリアの家」などと呼ばれる建物があり、現在の建物へと改修中、15世紀のものと思われるゴシック建築の遺構が発見された。

出窓のあるネオ・ゴシック+ネオ・ルネサンス様式に改修された建物の壁面には、チェコの画家、ミコラーシュ・アレス (Mikoláš Aleš, 1852-1913 wiki) の絵に基づく、白馬に乗った聖ヴァーツラフの壁画、そして、「聖ヴァーツラフの鷲の紋章」、「ボヘミア王国のライオンの紋章」、その下には 「プラハ市の紋章」が描かれている。
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以上、http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=62327http://www.praguewelcome.cz/srv/www/cs/objects/detail.x?id=62327 の解説、
OLD TOWN SQUARE (STAROMĚSTSKÉ NÁMĚSTÍ) http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42754
石川達夫著「黄金のプラハ―幻想と現実の錬金術 (平凡社選書)」221頁等、参照。

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ところで、「シュトルフ館」が現在の姿になったのは、1891年のチェコにおける記念博覧会の後、そして、第一次世界大戦 (1914年から1918年) 前

聖ヴァーツラフの壁画のある 「シュトルフ館」は、近代化に伴い市民階級が力を蓄え、チェコの民族的勢力が拡大していた時代の建物なのです。

ちょっと長くなってしまいましたが、つづきます。「プラハ 旧市街広場 02 「聖ミクラーシュ教会」

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プラハ散策 モーツァルトと 「スタヴォフスケー劇場」(エステート劇場)

プラハ散策 ツェレトナー通り @王の道、黒い聖母の家」のつづき。プラハの散策地図は 「こちら
プラハ個人旅行 まとめ記事

黒い聖母の家を左折すると、オヴォツヌィー広場 (Ovocný trh オヴォツヌィー・トゥルフ 果物市場) の奥に見えるのが、「スタヴォフスケー劇場」 (Stavovské divadlo) 英語名 「エステート劇場」 (The Estates Theatre)。
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1783年にオープンしたネオ・クラシック様式の劇場。当初は創設者 František Antonín Count Nostitz Rieneck の名前をとって、「ノスティツ伯爵の国民劇場」、略して「ノスティツ劇場」(Nostitz Theatre) と名付けられたが、 1948年から1990年まで、チェコの劇作家の名前をとって「ティル劇場」 (Tyl Theatre) と名付けられたあと、現在の名前となりました。

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ところで、モーツァルト (ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト, Wolfgang Amadeus Mozart (1756年1月27日 - 1791年12月5日) は、この「ノスティツ劇場」(Nostitz Theatre) とのゆかりが深く、彼がプラハに招かれた30才のとき、1787年1月17日、「ノスティツ劇場」でオペラ「フィガロの結婚」(Le nozze di Figaro) K.492 が上演され、自らこれを指揮 (初演は前年の1786年、ウィーンのブルク劇場)

そして、これが大好評 当時のノスティツ劇場から依頼されて作曲したのが、「ドン・ジョバンニ」(Don Giovanni) K.527

モーツァルトは、彼と親交のあったドシュコヴァー (Dušková) 夫妻のプラハの別荘
「ベルトラムカ」(Bertramka) に滞在して作曲に専念しました。
※「ベルトラムカ モーツァルト博物館」 は、2009年11月1日にクローズ http://www.bertramka.com/
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1787年1月19日には、この「ノスティツ劇場」で、交響曲第38番 「プラハ」(Prague) K.504を初演

Bruno Walter Conducts Mozart (2011 6Box Set Sony import)
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同年1787年10月29日に、「ドン・ジョバンニ」(Don Giovanni) K.527 は、この「ノスティツ劇場」で初演され、またもや大好評 当初予定していた初演に間に合わず、何回か延期された末のことでした。

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モーツァルトは1789年に2回、そして、1791年にも、プラハを訪れています。
 
このモーツァルトが亡くなる1791年、9月6日、この「ノスティツ劇場」で初演されたオペラ、「皇帝ティトスの慈悲」(皇帝ティートの慈悲) を自ら指揮。wiki

1762年、6才のとき、 ウィーン「シェーンブルン宮殿」にて、マリア・テレジアの御前で演奏したこともあったモーツァルトは、そのマリア・テレジアの息子にして、ヨーゼフ2世の弟でもある、レオポルド2世((Leopold II., 1747 - 1792, 神聖ローマ皇帝在位:1790 - 1792)の戴冠式を祝したのでした。
★以前書いたエントリー記事、「ウィーン 「シェーンブルン宮殿」を見学する - シェーンブルン宮殿の歴史

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これらのモーツァルトの作品は、プラハの人々に愛され、1791年12月5日、35才でウィーンで亡くなったあと、プラハでは壮大なミサが執り行われました。

★ウィーンで葬儀が行われた「シュテファン大聖堂」と、遺体が安置された「クルツィフィクス礼拝堂」については、以前書いたエントリー記事、「ウィーン「シュテファン大聖堂」 モーツァルト、クルツィフィクス礼拝堂 A Mozart Walk

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なお、この劇場は、映画「アマデウス」のロケで使われたほか、ゲイリー・オールドマンがベートーヴェン役となった映画 「不滅の恋 ベートーヴェン」(英・米、1994年 "Immortal Beloved") 終盤、交響曲第九番の、あの感動的な演奏が行われたロケでも使われました。 

先日、スカパー、イマジカBSで、映画 「不滅の恋/ベートーヴェン」を見ましたが、プラハ旧市街で訪れた場所がいくつも出てくるわ、ベートーヴェンのいた時代の衣装を着た出演者、エキストラが大勢歩いているわで、大興奮 
映画で流れていた、ショルティ指揮、ロンドン交響楽団, Sir Georg Solti, Conductor, The London Symphony Orchestra) の演奏、そして、「ベートーヴェン最愛の人は誰か?」、その謎解きの新解釈もあって、とても面白かったです!!

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★スタヴォフスケー劇場」 (Stavovské divadlo, エステート劇場 The Estates Theatre) については、
http://www.narodni-divadlo.cz/en/estates-theatre
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42734
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/cs/objects/detail.x?id=42734
★ノスティツ劇場とモーツァルト、モーツァルトとプラハについて、薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」187頁以下、ヴラスタ チハーコヴァー 著「新版 プラハ幻景―東欧古都物語」(新宿書房、1993年)121頁以下、参照。

★ 「フィガロの結婚」を書いた「モーツァルトハウス・ウィーン」については、以前書いた記事、「「モーツァルトハウス・ウィーン」 A Mozart Walk - Mozarthaus Vienna」 参照。

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今回、ウィーンとプラハを訪れたことにより、モーツァルトの足跡を知り、モーツァルトの曲により興味を持つきっかけになりました

できればタイムスリップして、あの時代のリアル、モーツアルトが指揮をしているコンサートを聴きに行きたい!!!、、、と妄想する私

つづきます。「プラハ ツェレトナー通りの抜け道、旧市街広場 01 「シュトルフ館」 聖ヴァーツラフの壁画

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プラハ散策 ツェレトナー通り @王の道、黒い聖母の家 

プラハ旧市街 散策マップ#1 ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)、火薬塔 (Prašná brána)」のつづき。プラハの散策地図は 「こちら
プラハ個人旅行 まとめ記事

ツェレトナー通り (Celetná) を歩く。石畳の道なので、スニーカーなどでないと足を痛めてしまうかも。 夫は最終日、足の痛みに耐えながら歩いていた。写真左は、「火薬塔」を振り返って見たところ。
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その昔、戴冠式の行進のスタート地点だった 「火薬塔」 から 「プラハ城」 までは 「王の道」(Královská cesta, The Royal Route) と呼ばれる歴史的ルートがありました(Wiki)。

「火薬塔」(Prašná brána) から、ツェレトナー通り (Celetná)、「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí)、「小広場」 (Malé náměstí)、 カルロヴァ通り (Karlovou ulicí)、クレメンティーナ (Klementina) 周辺、 「カレル橋」 (Karlově mostě) を渡って、モステッカー通り (ulicí Mosteckou)、「マラー・ストラナ広場」 (Malostranské náměstí), ネルドヴァ通り (ulicemi Nerudovou)、城への道 (ulicí Ke Hradu、「フラッチャニ広場」 (Hradčanské náměstí)、そして、「プラハ城」 (Pražský hrad) の 「聖ヴィータ大聖堂」 (katedrály svatého Víta) まで。

http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/other-points-of-interest/the-royal-route/ (チェコ語)

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それぞれ外観、玄関の意匠などが凝った建物が建ち並んでいて、軽い興奮状態で歩く。写真中ほどにある赤茶色の建物が「黒い聖母の家」。
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「黒い聖母の家」(Dům U černé Matky Boží, The House at the Black Madonna)
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黒い聖母の家は、プラハ最古のキュービズム建築。 ヨゼフ・ゴチャール (Josef Gočár) によって 1912年に建設。建物の名前は、黒い聖母のバロック彫刻に由来。
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=49440 (チェコ語)

入口の意匠は、キュービズムの芸術作品。キュービズムの絵が立体になった感じで面白い
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一階はキュービズムの品々を集めた GALERIE KUBISTA。http://www.kubista.cz/ 上にカフェあり。

ここを左折すると、モーツァルゆかりの「スタヴォフスケー劇場」、「カロリヌム」(カレル大学本部)へ。

つづきます。「プラハ散策 モーツァルトと 「スタヴォフスケー劇場」(エステート劇場)

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プラハ旧市街 散策マップ#1 ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)、火薬塔 (Prašná brána)

プラハのホテル 「グランド・ホテル・ボヘミア」(Grand Hotel Bohemia, Prague)」のつづき。 2013/8/14、 夫とのプラハ旧市街の散策から再び書いて行きます。

ウィーン・プラハ個人旅行 03 プラハ旅行編 まとめ記事 Journey to Prague (Praha)

★プラハ旧市街 散策マップ01 ※画像クリックで拡大 https://www.google.com/maps/ に加工。 ★「散策マップ02」 ★「プラハ建築散歩 散策マップ 03」 ★「旧市街 散策マップ04
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宿泊したホテルは 「グランド・ホテル・ボヘミア」(Grand Hotel Bohemia, Prague) http://www.grandhotelbohemia.cz/index.html チェックインの時間前に到着したので、ホテルに荷物を預け、プラハ旧市街を散策しました。

ホテルの玄関を出ると、右側斜向かいには、「ホテル・パジージュ」(Hotel Paříž Praha)。 英語名は、 「ホテル・パリ」(Hotel Paris Prague)。 1904年、当時を代表する建築家ヤン・ヴェイリフ (Jan Vejrych) によって建てられた、ネオ・ゴシック+アールヌーボー様式の建築物。 http://www.hotel-paris.cz/ja/
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チェコの作家ボフミル・フラバル(Bohumil Hrabal) 著 「わたしは英国王に給仕した」の舞台となった最高級ホテル。のち映画化。

アール・ヌーボーの影響を受けた、玄関のモザイク装飾、壁のしっくい装飾が美しい。
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「グランド・ホテル・ボヘミア」 のあるブロックと 「ホテル・パジージュ」。共に向かいにある建物が、1911年(明治44年) に完成した「市民会館 (Obecní dům)」。 その入口は、ちょうど反対側。 プラハ滞在三日目に中を見学しました。

小さなキューブ状の石を使った、モザイク模様の美しい石畳
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左側には外壁の装飾も凝っている 「市民会館」。右側は 「グランド・ホテル・ボヘミア」のあるブロック。 二つの建物に挟まれた道 U Prašné barány の先に見えているのが、「火薬塔」 (Prašná brána)。
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ところで、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の息子、ヴァーツラフ4世 (Václav IV. ドイツ名:ヴェンツェル、神聖ローマ皇帝在位:1376 - 1400年、ボヘミア国王在位:1378 - 1419年) は、1383年、プラハ城が火災にあったため、宮廷をプラハ城から旧市街に移し、この火薬塔の周辺に広大な王宮を創設。

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その後、チェコ語で説教をし、聖書をチェコ語に翻訳し始め、カトリック教会の改革を訴えたヤン・フス (Jan Hus, 1369年頃 - 1415年7月6日, Wiki) が、コンスタンツ公会議において矯正不可能な異端者と判断され、コンスタンツ郊外で火刑となる
★フスについては、後述 「プラハ 旧市街広場 03 「ヤン・フス像」」。

フスの処刑に抗議し、フスを支持するフス派メンバーのうち、修道士ヤン・ジェリフスキー (Jan Želivský, 1380 – 1422年3月9日) を中心とする急進派は、1419年7月30日、新市庁舎に投獄されたメンバーの釈放を求めたが拒否されたため、中に押し入り、市長を含む13名を窓から投げ落としたうえ殺害(第一次プラハ窓外投擲事件)。

・・・30年戦争の原因といわれる、1618年のプラハ城の窓外投擲事件より以前に、窓外投擲事件があったとは。。

国王ヴァーツラフ4世は事態の収拾を図れないまま、8月16日に死去・・・。

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翌1420年、教皇マルティヌスは、フス派を異端者として、これを征伐するよう全キリスト教国に勅書を発布。十字軍を差し向けるが、フス派が勝利

フス派戦争は、フス派の穏健派がカトリック教会に妥協し、急進派に勝利したことで終結に向かい、1436年「バーゼル協約」が結ばれ、ようやく終結。 正餐式において、従来パンだけ与えられていた信者に、神父と同様、ぶどう酒も与えられるべきとする二種正餐が容認された。この穏健派は二種正餐を最も重視していたので、「聖杯派」と呼ばれる

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その後、フス派に属するポジェブラディのイジーが国王となり、やがて第二次フス戦争が勃発
ポジェブラディのイジーが1471年病気で死去すると、ヤギェウォ家のポーランド王ジミェシュ4世(Kazimierz IV Jagiellończyk) と エリーザベト・フォン・ハプスブルク(Elisabeth von Habsburg)の息子、 ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー (Vladislav Jagellonský) がボヘミア王となる (在位:1471 - 1516年)。

1485年、クトナー・ホラで聖杯派とカトリック派の和解が成立(「クトナー・ホラの協定」)。両派併存が認められた

・・・もっとも、その後、カトリックがプロテスタントを弾圧したり、プロテスタントの中でも、ルター派とカルヴァン派とは反目したり。キリスト教の中でも、異質なものは排除したいものらしい。そして、いい加減に妥協しないと、国土が荒廃する事態にまで発展。「寛容」は、かくも難しいものなのか。

この一連のフス戦争は、マルティン・ルター(Martin Luther, 1483 - 1546) による「宗教改革」のように、ヨーロッパ全土を巻き込むような規模ではなかったが、その先駆とされている。

以上、薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)、薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」、佐藤優著「サバイバル宗教論」(文春新書、2014年)127頁、参照

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ところで、このヴラジスラフがボヘミア王となっていた1475年、前述の中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV.)によって作られた「新市街」 (Novém Městě) と「旧市街」(Starém Městě) を結ぶため、マチェイ・レイセク (Matej Rejsek) によってゴシック様式で造られた門が、「火薬塔」 (Prašná brána)。

そばの人物比でわかるように、かなりの大きさ。高さ65メートル。歴史を経た重厚さに圧倒されました

★「火薬塔」 (Prašná brána, The Powder Tower)
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ところで、その昔、旧市街は市壁に囲まれ、その周りには濠が掘られ、外敵から身を守る要塞のようになっていた。

そこに全部で13個あった門は要塞の一部で、火薬塔の門は、現在 Na Příkopě (ナ・プシコピェ) 通りとなった濠に面して建てられた。
もっとも、前述のようにカレル4世によって1348年、「新市街」が作られたので、旧市街の要塞としての役割は無くなってしまうのだけど。。

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この門が作られたのは、火薬塔に隣接する、今の市民会館のあたりに広大な王宮があったので、立派な門を作る意味があったこと。又、火薬塔の門は、プラハ城へと至る戴冠式の行列の起点となった

ところが、1483年プラハで暴動が起きたため、ヴラジスラフ王は、旧市街からプラハ城へと王宮を移転。その後ハンガリーに移ってしまったため、塔の工事はストップ。1583年、ルドルフ2世が王宮をプラハ城に移した後の、1592年に完成

カレル4世がペトル・パルレーシュ(Petr Parléř's)に建築を依頼して1380年に完成したカレル橋の旧市街側の橋塔にインスピレーションを受けたといわれる ・・・というより、現在の修復後の姿、特に塔の屋根は、旧市街側橋塔とほぼ同じ(笑)。修復前の火薬塔の絵を見ると、もうちょっとオリジナリティがあった(Wiki)のに。。

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その後、18世紀になると、この塔は火薬庫として使われ、現在の「火薬塔」の名前で呼ばれるように

そして、1757年、プラハ城外で行われた七年戦争におけるプロイセン軍とオーストリア軍との会戦(プラハの戦い)における銃撃戦で損傷。 19世紀の終わりに、J. Mockerによって再建。1880年代に修復

65メートルの高さの塔は展望台になっていて、186段の石段の螺旋階段あり。大人:90 CZK(2014年5月現在)。

http://en.muzeumprahy.cz/prague-towers/
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/60-powder-tower.shtml (チェコ語)
田中充子著「プラハを歩く (岩波新書)」68頁参照。

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その土地や建物の歴史は、知れば知るほど、その当時のことを想像でき、さらに興味がわいてきます。 いろんな本を読んで、その当時に描かれた絵を見るのも、まさにそのため。

そして、実際の風景や写真と重ね合わせて、たとえば映画のワンシーンのように、ニュース動画のように、頭の中でイメージを思い浮かべる。 もし、自分がその場に立ち会っていたら・・・とか。

ヨーロッパ、ことに今回行ったウィーンやプラハでは、その激動の歴史に思いを馳せながら、実際の風景をみて、肌でそれを感じることができ、むちゃくちゃ楽しかったです できれば、移住したいと思ったくらい

というわけで、ちょっと長くなってしまいますが、つづきます。「プラハ散策 ツェレトナー通り @王の道、黒い聖母の家   」

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