« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月の13件の記事

プラハ路地散歩 フソヴァ通り、カルロヴァ通り クラム・ガラス宮殿、カフカの研修生時代

プラハ 「クレメリア・ミラノ」 でアイスクリーム」の続き。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 02

プラハ旧市街、「フソヴァ通り」 (Husova) と 「カルロヴァ通り」 (Karlova) の角に立つ、妖艶な美女。 インパクト、ありすぎです!
01_20130814_to_17_prague_117

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「クラム・ガラス宮殿」 Clam-Gallasův palác
02_20130814_to_17_prague_118

入口左右の 「男像柱」(アトラス, atlas or teramon) が印象的。 入口脇にいる人たちと比較すると、彫像、そして門が、結構大きいことがわかると思います。

この後期バロック様式の建築物は、ナポリ総督 Jana Václava Gallase のために建てられた宮殿で、ウィーンの有名な建築家、フィッシャー・フォン・エルラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach, 1656-1723) のプロジェクトの下、Jan Dominik Canevalle によって、1713年から建築が開始されました。

入口左右の彫刻は、カレル橋の聖ルトガルディス (Sv Luitgarda) の彫像などでも有名な、マティアーシュ・ブラウン (Matyáš Bernard Braun) 作。

かつては、この宮殿に、モーツァルトとその妻コンスタンツェが訪れ、ベートーヴェン本人の演奏会も行われました

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

その後、維持管理の費用を工面するため、クラム・ガラス宮殿は、当時の当局に貸し出されます。

そして、作家フランツ・カフカ(Franz Kafka)は、プラハ大学で法律を専攻した後、1906年、ここで研修生として働きはじめたのでした。

現在、プラハ市所有のプラハ市公文書館の第二会館 (the second site of the Archive of the Capital City of Prague)。 不定期の展覧会、コンサートなどのイベントがあるときのみ入場可。

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=50665
http://www.ahmp.cz/index.html?mid=36&wstyle=0&page=%27%27
http://www.kafkamuseum.cz Franz Kafka Biography
参照

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

さて、カルロヴァ通り (Karlova) をカレル橋方面に歩いていくと、右側に 「クレメンティヌム」(klementinum) http://www.klementinum.com/

いつかは、ガイドツアーやコンサートに行ってみたい場所のひとつです。
http://www.klementinum.com/index.php?linkID=txt5&lang=2

そして左側、乙女の彫像、アール・ヌーヴォーの装飾が施された建物は、「金の爪の家」 (U zlatého hřebíku) 。
乙女は、プラハ建国に関わったリブシェ、といわれますが、後述のように異説あり。
03_20130814to_17_prague_119

http://www.preaha.kralovskacesta.cz/cs/prohlidka/objekty/u-zlateho-hrebiku.html

ちょっと先に進んで、振り返って見ると、こんな感じ。

真ん中、角に立っている建物は、「黄金の井戸の家」"The House at the Golden Well" (U Zlaté studny)
04_20130814_to_17_prague_185

「黄金の井戸の家」の名前は、その昔、この家にあった井戸の底に、黄金の宝物が隠されていた、という伝説に由来します。

これは、ある乙女がキラキラと輝く井戸を見て、何だろう?と身を乗り出したところ、井戸に落ちて溺死してしまったという悲しい伝説。

この伝説に基づいて、先ほど見た 「金の爪の家」の、乙女の彫像が作られたともいわれています。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「黄金の井戸の家」は、ルドルフ2世の治世の1600年頃、ここにローマ教皇大使、スピネッリが住んだこともある、という歴史的建造物。
かつてはロマネスク様式でしたが、バロック様式に改築され、18世紀のはじめに建物ファサードに美しい漆喰装飾が施されました。
現在は、アウルス・ホテル (Aurus)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42582

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

さらに、カルロヴァ通り (Karlova) をカレル橋方面に歩いていくと、左側に、金色のヘビの、家の紋章のある、「金色の蛇の家」(Dům U Zlatého hada)
05_20130814_to_17_prague_121

18世紀初頭、おそらく、プラハでは最初のカフェがあった場所といわれています。
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/cs/objects/detail.x;jsessionid=FF2D2BD9BF48D0E0907F43D85628D443?id=42680

この先に、カレル橋あり。 とても細い道ですが、かつては、プラハ城まで戴冠式の行進が行われた「王の道」(Královská cesta, The Royal Route)、の一部なのです。

つづきます。「プラハ ケプラー博物館、ケプラーによる天文学の発展と、ルドルフ2世

| | コメント (0)

プラハ 「クレメリア・ミラノ」(Cremeria Milano) でアイスクリーム ★日本語訳あり

プラハ 「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ) ビアホールの名店でピルスナー・ウルクェル」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 02

プラハ旧市街、 「フソヴァ通り」 (Husova) 沿い、先ほどのビアホール、「黄金の虎」の斜向かいにある、イタリアン・ジェラート 「クレメリア・ミラノ」(Cremeria Milano) で、アイスクリームを食べました。
10_20130814_to_17_prague_115

2種類選んだアイスクリームは、とても美味しかった 何を頼んだんだか忘れたけれど、この満面の笑顔で、満足度が丸わかりですね(笑)。
11_20130814_to_17_prague_116

レース模様のテーブルクロスがかかったテーブル席で、しばし、なごみ~ 

夫と私、二人とも、たくさんビールを飲んじゃったので、ここでトイレをお借りしました。

http://www.cremeriamilano.cz/

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

チェコ語でアイスクリーム (ice cream) = zmrzlina (ズムルズリナ)

アイスクリームの基本的な種類は、→http://www.cremeriamilano.cz/vyroba.html 

チェコには、是非とも再訪したいし、メニューには、一部イタリア語もあったので、公式サイトのチェコ語+チェコ語のグーグル翻訳&EX-word 伊和辞典を使った、とりあえずの日本語訳をアップしておきます。 ご参考まで。
Photo

謎の 「ヨーグルト森林ミックス」ってのもありますが お店の方に、質問してみて下さい。

もっとも、現物を見れば、中身は大体わかりますよね
実際、私がオーダーしたときは、指さし、"this and this, please" で通じました

つづきます。「プラハ路地散歩 フソヴァ通り、カルロヴァ通り クラム・ガラス宮殿、カフカの研修生時代

| | コメント (0)

プラハ 「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra) ビアホールの名店でピルスナー・ウルクェル

プラハ 旧市街市場」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 02

プラハで、ビアホール、ホスポダ=居酒屋の名店といえば、「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra)。 http://www.uzlatehotygra.cz/en/

「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra)
06_20130814_to_17_prague_111

このプラハ旧市街、 「フソヴァ通り」 (Husova) 沿いにある 「黄金の虎」 で、本場チェコビールの中でも最高に美味しいといわれる、
「ピルスナー・ウルクェル」 PILSNER URQUELL 、チェコ語で、「プルゼニュスキー・プラズドロイ」 PLZEŇSKÝ PRAZDROJ を堪能  
07_20130814_to_17_prague_105

こんなに、スイスイ飲めちゃう、美味しいビールは初めて ってくらいの感動でした
苦みのバランスも良いし、いくら飲んでも飲み飽きないんです  

ジョッキが空いたら、すかさず、「お代わり」 到来。 なんだか 「わんこそば」 みたいな感じ(笑)。

「もう、いらないです」 っていう意思表示(敷いてあるコースターを、自分のビールジョッキの上に乗っけてかぶせる)をしない限りは、お代わりを持って来ますよ、と相席になった男性が教えてくれました。

すでに、夫は、旧市街広場のテラス席で1杯、そして、「ウ・メドヴィードクー」 (U Medvídků) で元祖バドワイザー、「ブドヴァイゼル・ブドヴァル」(Budweiser Budvar)を1杯飲んでいたので、ここでは、「ピルスナー・ウルクェル」 を2杯。

私も、すでに「ウ・メドヴィードクー」で1杯飲んでいたので、「ピルスナー・ウルクェル」1杯 でギブアップ。

★以前書いたエントリー記事:「プラハ 「ウ・メドヴィードクー」 (U Medvídků) ビアホールで本場チェコビール、元祖バドワイザーを飲む

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

私たちは、開店午後3時の 5分後くらいに入りましたが、店内はすでに人でいっぱい!

「どこか空いていないかな~?」 と周りを見回してたら、テーブル席にいたお兄さんたちと目が合って、そのお兄さんたちが、とてもフレンドリーな、いい人たちで、 ニッコリ笑顔で、「こっち、空いてるよ~」みたいな感じで、すかさず席を詰めてくれました

本当に空いてるテーブルはなかったので、Lucky  わーい、ありがとう でした

シンガポールからお仕事で、という外国の男性と記念撮影。 一緒に乾杯して、お互い写真の撮りっこ
08_20130814_to_17_prague_106

相席になった地元プラハの女性に、オススメの場所を教えてもらったり、いろいろ話もはずんで楽しかった、プラハ 「黄金の虎」でした

美しいステンドグラスの装飾の入った窓
09_20130814_to_17_prague_110

営業時間は、年中無休で、PM 3:00~ PM 11:00
予約電話は、+420 222 221 111 ホテルの人にお願いするとよいかも 私たちが入ってだいぶ時間がたった後、団体さんが店の奥のほうに入って行ったので、予約が確実だと思います。

★「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra) http://www.uzlatehotygra.cz/en/
★ピルスナー・ウルクェル公式サイト http://www.prazdroj.cz/ 18才以上でないとサイトにアクセス不可。 生年月日の日、月、西暦を入力のこと。
★All ABOUT プラハのレストラン・ビアホール http://allabout.co.jp/gm/gc/185031/
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=43902

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

プラハに昼過ぎ到着し、まだ一日目が終わってないという、充実っぷり(笑)。

つづきます。「プラハ 「クレメリア・ミラノ」(Cremeria Milano) でアイスクリーム

| | コメント (0)

プラハ 旧市街市場 Staroměstská tržnice, Praha

マルタ・クビショバ 「ヘイ・ジュード」、プラハ ヴァーツラフ広場」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 02

写真左は、ヴァーツラフ広場の北の端にある屋台。 写真右は、ヴァーツラフ広場から旧市街広場の方向、ナ・ムーストク Na můstku を通って、リティーシュスカー通り (Rytířská) の右手。
以前、通って、ブログ記事でもとりあげた、「スタヴォフスケー劇場」(エステート劇場)を裏側から見たところ。
01_20130814_to_17_prague_096

このスタヴォフスケー劇場の裏側は表側とそっくりなので、方向感覚が狂ってしまった そのため、青空市場のハヴェル市場 (Havelské tržnice) まで行くつもりが、迷って行かれず・・・

リティーシュスカー通り (Rytířská) から、メラントリホヴァ通り(Melantrichova)を見たところ。 街灯がお洒落
02_20130814_to_17_prague_099

ここをちょっと歩いて、左折したら、「ハヴェル市場」 (Havelské tržnice) だったのでした

それにしても、魅力的な建物ばかり 上の写真の右側、重厚な建物はチェコ貯蓄銀行 Česká spořitelna。 このメラントリホヴァ通りの先には、プラハ旧市庁舎の天文時計。

メラントリホヴァ通りには進まず、リティーシュスカー通り (Rytířská) の左側へ。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「旧市街市場」 (Staroměstská tržnice, Old Town Market)
03_20130814_to_17_prague_100

このリティーシュスカー通り (Rytířská) にある 「旧市街市場」の建物。 あまりにも立派すぎちゃって、到底、スーパーマーケットが入っているようには見えないですよ!!

でも、入口のすぐ上、「Tržnice」 = 市場、と書かれてるんです

"tržnice" の発音は、トゥルフニーツェと聞こえるけれど、イマイチ確信が持てません

とにかく、英語 Market (マーケット)、ドイツ語 Markt (マルクト) などとは、全くアルファベットに共通性が無い単語なので、意味の推測ができません。 で、建物の外観だけを見て、「銀行かなんかかな?」、なんて、うっかり誤解してました

現在は、オランダ大手のスーパーマーケットのチェーン店、「アルベルト」(Albert) の店舗などが入っています。
http://www.albert.cz/nase-prodejny/supermarket-praha-staromestska-trznice

チェコのスーパーマーケットには、時間があったら、入ってみたかったなぁ~

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

この、「男像柱」(アトラス, atlas or teramon) が入口左右に施されたネオ・ルネサンス様式の建物が完成したのは、1897年。日本の年号では、明治30年のこと。

この市場を作るために、以前あった4つの家、「黄金の星の家」、「羊の家」、「赤い雄鶏の家」、「三つの黄金の蹄鉄の家」は、1894年に壊されてしまいました。

最後にあげた、「三つの黄金の蹄鉄の家」は、リトグラフ(石版画)を発明した、アロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder, 1771-1834) の生家。 入口左側には、彼の肖像を刻んだ記念プレートが掲げられています。

★Old Town Market (Staroměstská tržnice)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=49713チェコ語

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

リティーシュスカー通り (Rytířská) を、さらに左へ。

「ウヘルニー広場(Uhelný trh ウヘルニー・トゥルフ、石炭市場)。 噴水 Wimmerova kašna、が中央にあり、公衆トイレ (WC) もあり。女性(Ladies)は、ženy、ドイツ語では damen.
04_20130814_to_17_prague_102

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ところで、 "trh" (トゥルフ) も、"tržnice" と同じく、市場 (Market) の意味。

以前、通って、ブログ記事でもとりあげた、「スタヴォフスケー劇場」(エステート劇場) の前の、オヴォツヌィー広場 (Ovocný trh オヴォツヌィー・トゥルフ)は、果物市場の意味。

Google チェコ語翻訳 https://translate.google.co.jp/#cs/ja/ してみると、名前から、種目ごとに市場があったのことがわかって面白い~

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

写真は、「ベツレヘム広場」"Bethlehem Square"(Betlémské Náměstí ベトレムスケー・ナーメスチー) に至る道と、「フソヴァ通り」 (Husova) へと至る道の角。
レストランの壁には、ヤロスラフ・ハシェク著 「善良なる兵士シュベイク」の、ヨゼフ・ラダのイラストが描かれていて、ちょうどいい目印になりました
01

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

そして、「フソヴァ通り」 (Husova) 沿いにある、プラハのビアホールの有名店、「黄金の虎」(U Zlatého Tygra ウ・ズラテーホ・ティグラ) へ (写真右端)。
http://www.uzlatehotygra.cz/en/ 写真は、旧市街広場側から見た風景。「聖イリイ教会」 (Kostel svatého Jiljí) の塔が見えています。
01_20130814_to_17_prague_113

で、ようやく、ビアホール 「黄金の虎」 (U Zlatého Tygra ウ・ズラテーホ・ティグラ)へ。

つづきます。「プラハ 「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra) ビアホールの名店でピルスナー・ウルクェル

| | コメント (0)

マルタ・クビショバ 「ヘイ・ジュード」、プラハ ヴァーツラフ広場 ★動画あり

プラハ建築散歩 ヴァーツラフ広場  「ホテル・エヴロパ」、「ヴィール館」など」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 03

私は、プラハ旅行前、NHKBSプレミアムで、「ハイビジョンスペシャル 世紀を刻んだ歌 ヘイ・ジュード -革命のシンボル になった名曲-」の再放送を見て、プラハのヴァーツラフ広場を、この目で見てみなくてはという思いに強くかられました。

1968年8月20日の深夜から21日にかけて、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍がチェコに侵攻(チェコ事件)。

かつては、ソ連軍の戦車に埋め尽くされていたヴァーツラフ広場。 ここで記念撮影。
001_20130814_to_17_prague_077

これに抗議するチェコの群衆、チェコ国営ラジオに鳴り響く銃声・・・

「プラハの春」によって芽生えた自由は、厳しい弾圧を受け、秘密警察 (ŠtB) への密告、盗聴が横行します。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

これに対する抵抗運動として、チェコの歌手、マルタ・クビショバ(Marta Kubišová, 1942年~)は、ビートルズの名曲 「ヘイ・ジュード」を、チェコ語の歌詞に置き換えて歌いました。

それは、「人生は素晴らしいけれど、残酷なもの。 私たちは人生にあやつられるけれども、どうか悲しまないで・・・」 といった歌詞の中に、祖国の自由への思いが込められたもの。

まもなく、彼女は共産党政府の弾圧を受け、回収されたレコードは街頭で割られ、ファンが隠していたレコードも、密告により壊されてしまいます・・・。
Songy_a_balady

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

苦難の時代を経て、1989年11月10日、ベルリンの壁が崩壊。

1989年11月17日、プラハで大規模な反政府デモが行われ、警官隊に弾圧されたことに端を発した、「ビロード革命」。 これにより、政権交代、民主化が実現。

ヴァーツラフ広場を埋め尽くすチェコの人々。 その前で、演説を行う、新大統領ヴァーツラフ・ハヴェル。

マルタ・クビショバは、学生たちに頼まれ、カレル大学構内で行われた学生たちの集会で、自由のシンボルとなった 「ヘイ・ジュード」の歌を、20年ぶりに歌うのでした。

Marta Kubišová - Hej Jude

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ポール・マッカートニーによる、「Take a sad song, and make it better」 も、もちろん心に響く歌詞ですが、チェコ語版のズデニェク・リティーシュ (Zdeněk Rytíř) 作詞の、過酷な運命とともに、それに立ち向かう勇気を与えてくれる歌詞。

その日本語訳を見ながら、マルタの力強い歌声を聴くうち、涙が流れて仕方ありませんでした。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

今回の旅行で、深い歴史が刻まれたこのヴァーツラフ広場に立ち、かつてはチェコの群衆に埋め尽くされた広場の大きさを実感することができたのは、とても得難い体験となりました。

★マルタ・クビショバ Marta Kubišová 公式サイト http://www.kubisova.cz/

つづきます。「プラハ 旧市街市場 Staroměstská tržnice, Praha

| | コメント (0)

プラハ建築散歩 ヴァーツラフ広場  「ホテル・エヴロパ」、「ヴィール館」など

プラハ建築散歩 散策マップ#3 ヴォディチコヴァ通り 「ノヴァック館」、「ミシャーク館」など、カフカの転職」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 01」、★「プラハ旧市街散策マップ 02」。

地図は、「プラハ建築散歩 散策マップ 03」をどうぞ。

「ヴァーツラフ広場」 (Václavské náměstí, Wenceslas Square) 国立博物館側の中央にある美しい花壇
01_20130814_to_17_prague_081

ヴァーツラフ広場は、長さ750m、幅63mと48mの二つの部分から成る、大きな広場。

かつては、1348年、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV.)による、「新市街」 (Novém Městě) の建設に伴って作られた「馬広場」でした。

そして、新市外にも旧市街と同様、ぐるっとまわりを取り囲む市壁が作られましたが、その防御壁の一部となった4つの門の一つ、「馬の門」(聖プロコプの門)(brána sv. Prokopa) が、現在の国立博物館のあたりに作られ、1875年に取り壊されました。

なお、国立博物館(Národního muzea)の建物は、1890年に完成。 その前にある聖ヴァーツラフの騎馬像は、1912年から1913年にかけて、彫刻家 Josef Václav Myslbek によって作られました。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ヴァーツラフ広場は、アール・ヌーヴォー様式(Art Nouveau)、ネオ・バロック様式(Neo-Baroque)、ネオ・ルネサンス様式(Neo-Renaissance)の建物が建ち並ぶ繁華街。

アールヌーボー様式の建物、「ホテル・エヴロパ」(Hotel Evropa)とその右隣の「ホテル・メラン」(Hotel Meran
02_20130814_to_17_prague_075

ホテルの前に見える路面電車は、古い路面電車を利用したカフェ

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「ホテル・エヴロパ」(Hotel Evropa)。
03_20130814_to_17_prague_079

1872年、ネオ・ルネッサンス様式に建てられた後、1889年、アール・ヌーヴォー様式で改築
第二次大戦後、Grand Hotel Evropa と改名。 近年破産・・・

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「ヴァーツラフ広場」 (Václavské náměstí, Wenceslas Square) 国立博物館の反対側。
04_20130814_to_17_prague_082

上の写真の左端に見えるのが、「ヴィール館」(Wiehlův Dům, Wiehl's House)。 その右側が旧チェコ銀行(Palác bývalé České banky, palác Ligna)。 この間のヴォディチコヴァ通り (Vodičkova) を通って、ヴァーツラフ広場に出てきたのでした。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「ヴィール館」(Wiehlův Dům, Wiehl's House)
05_20130814_to_17_prague_086

「ヴィール館」は、建築家アントニン・ヴィール (Antonin Wiehl) が元の家を買い取り、1895年から1896年にかけて、ネオ・ルネサンス様式で再築。
チェコ・ネオ・ルネッサンス建築の中でも、最も美しい建物の一つです

ファサードの絵は、旧市街広場の聖ヴァーツラフの壁画の 「シュトルフ館」と同じく、チェコの画家、ミコラーシュ・アレス (Mikoláš Aleš, 1852-1913 wiki) の絵に基づくもの。
ルドルフ2世の時代の頃からの、裕福な商人の人生についての、6つの絵のシリーズが描かれています

現在、アカデミア書店 (Knihkupectví Academia, Academic Bookshop カフェもあり) が入っています。
チェコの可愛い絵本もお土産に買って帰りたかったなぁ~

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x;jsessionid=392729273278DC4D2F18511729AAF9F6?id=63506チェコ語)参照

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ヴァーツラフ広場の端まで行くと、お土産さんの屋台がいくつも出ていました。
06_20130814_to_17_prague_090

「コルナ宮殿」(Palác Koruna, Koruna Palace)の屋上。
08_20130814_to_17_prague_091

ナ・プシコピェ通りとの角にある「コルナ宮殿」は、1912年に建てられました。アール・ヌーヴォー様式の装飾が美しい

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x;jsessionid=D0A545DD454562197A7FE4E9B639E3E4?id=55119チェコ語)参照

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ヴァーツラフ広場の端から右側は、「ナ・プシコピェ通り」(Na příkopě)。ナ・プシコピェ=溝の意味。
ここにはプラハ旧市街を取り囲んでいた市壁の外側の堀がありました。
06_20130814_to_17_prague_090_2

そして、ヴァーツラフ広場の端から左側は、「10月28日通り」(28. října)という名前。10月28日は、1918年、チェコスロヴァキアが独立した、「チェコスロヴァキア独立記念日」。チェコで最も重要な祝日となっています。

★ヴァーツラフ広場と建築物については、http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=45151チェコ語)参照。
★プラハのアール・ヌーヴォー http://www.praguewelcome.cz/cs/secese/

プラハには、ほかにも魅力的な建物がたくさんあり、今回は時間がなくて行かれなっかった建物内のアーケード(パッサージュ, Pasáž)もあり、いろいろ興味が尽きません。

つづきます。「マルタ・クビショバ 「ヘイ・ジュード」、プラハ ヴァーツラフ広場 ★動画あり

| | コメント (0)

プラハ建築散歩 散策マップ#3 ヴォディチコヴァ通り (Vodičkova) 「ノヴァック館」、「ミシャーク館」など、カフカの転職

プラハ 「壁の中の聖マルティン教会」」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 01」、★「プラハ旧市街散策マップ 02」。

★プラハ建築散歩 散策マップ 03 ※画像クリックで拡大 https://www.google.com/maps/ に加工。
Photo

ナーロドニー通り(Národní)に出て、道の先にある、「国民劇場」(Národní Divadlo, The National
Theatre, 1883年完成)の美しい屋根を眺める。 いつかは入ってみたい歴史ある劇場
01_20130814_to_17_prague_065

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ここから南下し、スパーレナ(Spálená)通り、ラザルスカー (Lazarská) 通りを通って、 ヴォディチコヴァ通り (Vodičkova) へ。

ヴォディチコヴァ通りに入ったところで、「スグラフィット」(スグラフィート Sgraffito) で装飾された、ネオ·ルネサンス様式の建物に遭遇 遠回りした甲斐がありました。

「旧女学校」(bývalé Vyšší dívčí školy, Former Senior Girls School)。 現、ラザルスカー小学校(Základní Škola Vodičkova
02_20130814_to_17_prague_067

この建物は、建築家イグナーツ・ウルマン (Ignác Ullmann, 1822-1897) の設計に基づき、1866年から67年にかけて建てられました。

「スグラフィット」(スグラフィート Sgraffito) の装飾。 この細密にして優美なスグラフィットは、画家 Josef Scheiwl の絵に基づくもの。
03_20130814_to_17_prague_067

http://www.praguewelcome.cz/srv/www/cs/objects/detail.x;jsessionid=58585CA9218660663B40B977D752EE9A?id=54171(チェコ語)参照。
★スグラフィットについては、「プラハ 一分の家 (ミヌタ館)、カフカ」の説明参照。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ラザルスカー (Lazarská) 通りを、ヴァーツラフ広場 (Václavské náměstí, Wenceslas Square) に向かって歩いて行くと、右側に、アールヌーボー様式のモチーフで装飾された、「ノヴァック館」(U Nováků)の入口。
05_20130814_to_17_prague_069

「ノヴァック館」(U Nováků)。モザイク画で美しく装飾されたファサード
06_20130814_to_17_prague_070

ノヴァック館は、プラハ市民会館の共同設計者の一人としても有名な、オスヴァルド・ポリーフカ (Osvald Polívka, 1859–1931)の設計に基づき、1902年から1903年にかけて、デパートとして建てられました。

ファサードのモザイク画は、ヤン・プライスレール (Jan Preisler) による、産業と貿易のアレゴリー。

建物の中にはショッピング・アーケード(パッサージュ, Pasáž)あり。

★The U Nováků Shopping Arcade (Obchodní dům U Nováků)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=678823 参照。 チェコ語の発音は、iPhoneのアプリ、 "iHandy 翻訳機 Free "。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ノヴァック館の向い側にある、「ロンド・キュビズム様式」(Rondo-Cubist)、 第一次世界大戦後の後期キュビズム様式)の建物は、「ミシャーク館」(U Myšáka)。
04_20130814_to_17_prague_070

装飾的なキュービズムのモチーフ、赤い煉瓦が印象的なファサードは、「黒い聖母の家」でも有名な建築家、ヨゼフ・ゴチャール (Josef Gočár, 1880-1945) の設計により、1921年から1922年にかけて建設。

老舗パティスリー、「ミシャーク」"Myšák" もあり http://www.mujmysak.cz/en_index.html

http://www.archiweb.cz/news.php?action=show&type=1&id=1727、参照

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ノヴァック館と同じく、ショッピング・アーケード(パッサージュ, Pasáž)のある隣の建物は、「ルツェルナ宮殿」(Palác Lucerna, Lucerna Palace)。
1907年から1921にかけて、元ヴァーツラフ・ハヴェル大統領(Václav Havel) の祖父 Vácslav Havel と Stanislav Bechyně によって建てられました。

パッサージュにある、逆さ吊りの馬に乗ったヴァーツラフ像とかも、見てみたかった

★Lucerna Palace (Palác Lucerna - Velký Sál)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=53365wiki
★公式サイト http://www.lucerna.cz/o_lucerne.php

写真右側にあるのが、「ルツェルナ宮殿」。 歩道の市松模様に並べられた敷石が素敵
08_20130814_to_17_prague_071

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ヴァーツラフ広場 (Václavské náměstí, Wenceslas Square) に到着。

斜向かいにあるネオ・バロック様式の建物は、元ゼネラリ保険会社の、「ゼネラリ宮殿」(Palác Generali)。
07_20130814_to_17_prague_072

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ところで、作家フランツ・カフカは、1907年10月、このゼネラリ保険会社のプラハ支店 (Prague office of Assicurazioni Generali ) に入社

でも、一年たたないうちに、翌年1908年7月には、半官半民の「労働者災害保険協会」 (Workers' Accident Insurance Institute) に転職。

転職後、小説 「変身」など、代表作を執筆。
カフカさんは、余暇余裕ありの職場に転職できて、本当に良かったと思います

http://www.kafkamuseum.cz Franz Kafka Biography

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

Praguewelcome.cz のヴァーツラフ広場の建物の解説によれば、"Neo-Baroque Palace (No. 19) built in 1895 according to the project of architects Osvald Polívka and Bedřich Ohman originally built for the Assecurazioni Generali insurance company." とのこと。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ところで、ブログでプラハの記事を書くにあたって、Praguewelcome.cz 英語版の解説を読み、英語の勉強もしている、今日この頃。 詳しい解説が書いてあるしで、とても重宝しています

なお、チェコ語の翻訳は、パソコンのブラウザ Google Chrome の設定で 「母国語以外のページで翻訳ツールを表示」

チェコ語の発音は、iPhoneの無料アプリ、 "iHandy 翻訳機 Free "を使用しています。 無料なのに、チェコ語翻訳、発音までカバーしていて素晴らしい!

魅力的な建物がいっぱいのプラハの街並み。

つづきます。「プラハ建築散歩 ヴァーツラフ広場  「ホテル・エヴロパ」、「ヴィール館」など

| | コメント (0)

プラハ 「壁の中の聖マルティン教会」

プラハ 「ウ・メドヴィードクー」 ビアホールで本場チェコビール、元祖バドワイザーを飲む」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★プラハ旧市街 散策マップ 02

「壁の中の聖マルティン教会」 (Kostel sv. Martina ve zdi, St Martin in the Wall)
01_20130814_to_17_prague_062

「壁の中の聖マルティン教会」は、1178年から1187年にかけて、建てられました。

その後、1235年、プラハ旧市街の建設がはじまります。

ヴァーツラフ1世(Václav I, ボヘミア王在位:1230年 - 1253年) は、たびたび氾濫を引き起こすヴルタヴァ川(ドイツ語名、モルダウ川)の護岸工事を行い、地盤を上げるべく 2~3 m 土盛りをし、街の周囲を市壁で囲い、まわりに深い濠を堀って水を張り、都市整備を行いました。

「壁の中の聖マルティン教会」は、このとき、旧市街側と、のちに新市外側となる外側、二つに分断されてしまいます。 そして、旧市街側に残った教会、南側の壁は、旧市街の市壁に、そのままはめ込まれてしまったのでした。

これが、この教会の名前の由来。

近くに「聖マーティン門」(St Martin Gate) と呼ばれた町の門が作られました。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

当初はロマネスク様式で建てられましたが、1350年より後、カレル4世の治世中に、ゴシック様式で再建。 天井、ブラケットから伸びる穹稜状のボールトは、プラハにおける最も古いものの一つです。
今日ある後期ゴシック様式での教会の形への再建は、1488年に完成。

写真は、南側の路地裏から見たところ。※写真は Windows Live フォトギャラリーを使用し、パノラマ写真として合成
01_20130814_to_17_prague_055

1414年、ヤン・フスがコンスタンツ公会議へと去った直後、この壁の中の聖マルティン教会で、ヤン・フスも影響を受けたウィクリフ派、ストシーブロのヤコウベクのが始めた、パンと葡萄酒の両方を用いた両形色の正餐が行われました。

これまで、一般人はパンだけが授けられていましたが、葡萄酒も授けられたことから、以後、「聖杯」が、フス派のシンボルになりました

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

その後、教会は1678年に火災にみまわれ、塔の上部は、この火災の後に再建。 1779年、道に面した北側、バロック様式の入口が設けられました。

その3年後、女帝マリアテレジアの息子のヨーゼフ2世(Joseph II)は信教の自由を認め、プロテスタントに対する寛容政策を取り、1781年、宗教寛容令(信教容認令)を公布。

ところが、1784年、教会は解散させられ、倉庫、アパート、店舗になってしまいます・・・。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

その後、1904年にプラハ市が教会を購入して、1905年から6年にかけて再建。 塔にネオ・ルネッサンス様式の切り妻を設置。

第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した1918年、民族自決の理念に基づきチェコスロヴァキア共和国が独立。
それにあわせて、プロテスタントの 「チェコ兄弟団福音教会」(チェコ同胞福音教会)ができ、この教会の長期賃借権を取得。 現在に至っています。

★公式サイト:http://www.martinvezdi.eu/?lang=en
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=52897 (チェコ語)、http://www.martinvezdi.eu/historie?lang=enhttp://www.praguecityline.cz/pamatky/kostel-sv-martina-ve-zdi 参照
薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)110頁等、「チェコ兄弟団福音教会」については、佐藤優著「サバイバル宗教論」(文春新書、2014年)131頁参照。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ちなみに、北側の壁の記念のレリーフは、カレル橋の聖ヤン・ネポムツキー像の木製模型や、聖バルバラ、聖マルガリータ、聖エリーザベト像などを作った彫刻家、ブロコフ(Jan Brokoff)と二人の息子。 彼らが作った像は、プロテスタントではなく、カトリック寄り。
01_20130814_to_17_prague_058

★カレル橋の聖ヤン・ネポムツキー像については、ブログ記事本文: 「プラハ カレル橋 聖ヤン・ネポムツキーの伝説」をどうぞ。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ところで、現在の、「チェコ兄弟団福音教会」(the Evangelical Church of Czech Brethren (ECCB ), Českobratrská církev evangelická)は、ルター派とカルバン派の合同教会。http://www.e-cirkev.cz/

今まで書いてきたように、チェコにおいて、プロテスタントは徹底的な弾圧を受け、その後も、 さまざまな歴史の変転を経てきましたが、ようやく、プロテスタントの教会に戻った「壁の中の聖マルティン教会」! すごく古いだけが、凄いんじゃないんです!!

と、長くなってしまいましたが、宗教の歴史、その流れを知らずして、一国の姿、ひいては世界のあり方を知ること無し! 

・・・なーんて、柄にもなく、ちょっとエラそうに書いちゃいましたが カトリック VS プロテスタントといった宗教的な対立、このような歴史的背景は、チェコ、ひいてはヨーロッパを理解していく上で、欠かせない要素だと思うのです。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

教会の一般への公開は、公式サイトによると、月曜日から土曜日:15.00から17.00まで (それ以外は要コンタクト)。 コンサートも行われています

つづきます。「プラハ建築散歩 散策マップ#3 ヴォディチコヴァ通り (Vodičkova) 「ノヴァック館」、「ミシャーク館」など、カフカの転職

| | コメント (3)

プラハ 「ウ・メドヴィードクー」 (U Medvídků) ビアホールで本場チェコビール、元祖バドワイザーを飲む

プラハ 「ベツレヘム礼拝堂」、ヤン・フスの説教 ミュッシャ「スラブ・エピック」」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★プラハ旧市街 散策マップ 02は「こちら

ベツレヘム礼拝堂のすぐ近くにある、ビアホール 「ウ・メドヴィードクー」 (U Medvídků) で、本場チェコビール、元祖バドワイザー、「ブドヴァイゼル・ブドヴァル」(Budweiser Budvar)、チェコ語で、「ブディェヨヴィツキ―・ブドヴァル」(Budějovický Budvar)、生で乾杯!!
01_20130814_to_17_prague_048

ウィーンのプラーターにあるビアガーデン、「シュヴァイツァーハウス」 でも、元祖バドワイザー生、を飲みましたが、本場チェコでも飲めて、嬉しさもひとしお やっぱり美味しかった元祖バドでした http://www.budvar.cz/

ウィーン、インペリアル・ホテルでの朝食のバイキングで、たくさん食べていたので、あまりお腹が減ってなく、軽くパン&チキンサラダのみ。 パンも美味しかった
01_20130814_to_17_prague_049

店内は広かったけど、だんだん満席になってきて、途中ちょっとだけ、チェコ語を話していると思われる感じの良い年配の女性二人組と相席になりました。

こんな美味しいビアホールで、昼間から女性二人、リラックスして飲めるなんて、とても羨ましかったです

01_20130814_to_17_prague_063

★元祖バドワイザーについては、以前書いた記事、「ウィーン ビアガーデン 「シュヴァイツァーハウス」 元祖バドワイザー&巨大骨付き豚グリル Schweizerhaus, Prater」に詳しく書きました。

★「ウ・メドヴィードクー」 (U Medvídků)  公式サイト http://www.umedvidku.cz/

ビアホールといえば、後ほど 「黄金の虎」 でも飲みましたが、それは後ほど。→★ブログ記事本文:「プラハ 「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra) ビアホールの名店でピルスナー・ウルクェル

つづきます。「プラハ 「壁の中の聖マルティン教会」

| | コメント (0)

プラハ 「ベツレヘム礼拝堂」、ヤン・フスの説教 ミュシャ「スラブ叙事詩(スラブ・エピック)」

プラハ路地散歩 フソヴァ通り 「ぶら下がる男」」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★プラハ旧市街 散策マップ 02は「こちら

フソヴァ通りを抜け、右折すると、「ベツレヘム礼拝堂」(Bethlehem Chapel, Betlémská Kaple)。 写真、奥に見えている二つの大きな切り妻屋根の簡素な建物。
01_20130814_to_17_prague_044

道の先にある、「ベツレヘム広場」"Bethlehem Square"(Betlémské Náměstí ベトレムスケー・ナーメスチー) の前まで行きました。 広場前には、たくさんの観光客。 カメラのシャッターを押したつもりが失敗していて、正面からの写真は残念ながらありません

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

そのかわりに、プラハ旅行最終日、「ヴェレトゥルジュニー宮殿・国立美術館」(Veletržní palác - Národní galerie) の特別展で見た、
ミュシャ (ムハ)の 「スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)」 Alfons Mucha: Slovanská epopej 、
「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス」(Master Jan Hus Preaching at Bethlehem Chael)
01_20130814_to_17_prague_1698

この、610cm×810cm のとても大きな絵は、1916年、ミュッシャによって描かれたもの。 絵のシーンは、1412年、フスが説教を行った、ゴシック最盛期の礼拝堂の様子を再現。

右側、赤い天蓋の下、フスの説教を熱心に聞き入っている女性は、カレル4世の息子であるヴァーツラフ4世(Wenceslaus IV, Václav IV.) の王妃ソフィアです。(特別展のパンフレット参照)

★ミュッシャ (ムハ)の 「スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)」 Alfons Mucha: Slovanská epopej @ヴェレトゥルジュニー宮殿・国立美術館 」(Veletržní palác - Národní galerie) 2012年5月10日 から 2016年12月31日(現在は、Trade Fair Palace に改名)
http://www.ngprague.cz/en/exposition-detail/alfons-mucha-the-slav-epic/
http://www.pricejb.pwp.blueyonder.co.uk/slav-epic/introduction.htm
・・・"Gallery" に一つ一つの絵の紹介と解説あり

★ブログ記事:ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半、「The Magic of Words」三部作

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「ベツレヘム礼拝堂」(Bethlehem Chapel, Betlémská Kaple) は、前掲、カレル4世の宮廷を辞しボヘミアで教会批判を展開していたクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去) の賛同者により 1394年に建立、チェコ語で説教が行われていました。

そして、ヤン・フス(Jan Hus, 1370年頃 - 1415年) は、ボヘミアにおける宗教改革で指導的立場に立った人物。wiki

1402年、ベツレヘム礼拝堂の説教師に任命されたフスは、1402年から1412年にかけて、収容人数 3,000人といわれる、この礼拝堂で、カトリック教会の堕落を糾弾。 教会改革を訴えたほか、ローマ教皇のよる「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)の販売を批判。

「コンスタンツ公会議」において矯正不可能な異端者と宣告され、1415年7月6日、火あぶりの刑に処されたのでした。

★ヤン・フスについては、「プラハ 旧市街広場 03 「ヤン・フス像」」のエントリー記事に詳しく書きました。

薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)86頁、108頁参照。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ところで、1618年の「第二次プラハ窓外投擲事件」に端を発した、「30年戦争」(1618年から1648年)。 その「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年) においてハプスブルク側が勝利すると、ベツレヘム礼拝堂は、ローマ・カトリック教会によって没収。

1661年には、イエズス会がこれを購入。フス派の碑文や絵は剥ぎ取られ、 カトリック教会へと変わります。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

その後、女帝マリアテレジアの息子のヨーゼフ2世(Joseph II)は信教の自由を認め、プロテスタントに対する寛容政策を取り、1781年、宗教寛容令(信教容認令)を公布。

ところが、1786年、ベツレヘム礼拝堂の建物は取り壊されてしまいます(ただし、それ以前に屋根が崩落していたという説あり)。

1835年から36年には、跡地にアパートが建てられましたが、1916年、ベツレヘム礼拝堂の再建案が浮上。

しかし、時代はそれを許さず。 1950年になって、新たな再建案が決定。 1954年7月5日、中世オリジナルの状態に復元された礼拝堂が公開されました。ただし、忠実な復元ではないという説あり(※注))

その後、「説教師の家」とよばれる展示ホールも設立され、現在はチェコ工科大学(Czech Technical University)の所有。

★Bethlehem Chapel (Betlémská kaple)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42713
ヴラスタ チハーコヴァー 著「新版 プラハ幻景―東欧古都物語」(新宿書房、1993年)156頁、※注は、本書368頁の注23、参照。
田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」83~86頁、参照。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ゼロからの再建とはいえ、かつてはヤン・フスが説教を行った礼拝堂。

ここに、かつて多くのチェコの人々が、フスの教会改革の声に耳を傾け、やがては、フス戦争へ。
ここは、宗教改革の先駆けとなる、チェコ語による民衆への説教が行われたという、歴史的にも重要な場所なのです。

つづきます。「プラハ 「ウ・メドヴィードクー」 (U Medvídků) ビアホールで本場チェコビール、元祖バドワイザーを飲む

| | コメント (0)

プラハ路地散歩 フソヴァ通り (Husova) 「ぶら下がる男」

プラハ旧市街 散策マップ#2 チェコ土産@エルペット、カフカの生家」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★プラハ旧市街 散策マップ 02は「こちら

「小広場」(マレ・ナーメスチー、Malé náměstí, Small Square) を抜け、「王の道」を通らず、「フソヴァ通り」 (Husova) へ。
01_20130814_to_17_prague_113

写真右端は、プラハのビアホールの有名店、「黄金の虎」(U Zlatého Tygra ウ・ズラテーホ・ティグラ)
開店時間の午後3時にあわせて、後ほど入店。 記事も後ほど、お楽しみに 
http://www.uzlatehotygra.cz/en/
★ブログ記事本文:「プラハ 「黄金の虎」 (ウ・ズラテーホ・ティグラ U Zlatého Tygra) ビアホールの名店でピルスナー・ウルクェル

左側に、小さくアイスクリームの形の看板が出ているところは、「クレメリア・ミラノ」(Cremeria Milano)」。こちらも、ビアホールの後に入店 記事も後ほど。 

写真の塔は、「聖イリイ教会」 (Kostel svatého Jiljí)。

下の写真、左側には教会の入口。 コンサートの告知がありました

「フソヴァ通り」 (Husova) を歩いた先。  写真右、ふと上を見上げると、、
01_20130814_to_17_prague_041

こんな細い路地裏で、ぶら下がっているオジサン・・・

「ぶら下がる男」 "Man Hanging Out" (Zavešený muž) by チェコの前衛芸術家、デヴィッド・チェルニー (David Cerný) の作品とは。。
011_20130814_to_17_prague_042

http://www.waymarking.com/waymarks/WM6GT1_Man_Hanging_Out_Zaveen_mu_Prague 参照

中世の佇まいを残したプラハ、路地裏の街並みも素敵ですが、上にも注目でした

つづきます。「プラハ 「ベツレヘム礼拝堂」、ヤン・フスの説教 ミュッシャ「スラブ・エピック」

| | コメント (0)

プラハ旧市街 散策マップ#2 チェコ土産@エルペット、カフカの生家

プラハ 一分の家 (ミヌタ館)、カフカ幼少時代の家」のつづき。
プラハ個人旅行 まとめ記事 ★「プラハ旧市街 散策マップ 01」、「プラハ建築散歩 散策マップ 03

★プラハ旧市街 散策マップ 02 ※画像クリックで拡大 https://www.google.com/maps/ に加工。
Photo

プラハ旧市庁舎、「一分の家」(ミヌタ館)の向かい。左から 「赤いキツネの家」(At the Red Fox House)、「青いガチョウの家」(The Blue Goose House)、青い 「Štěpánovskýの家」(Stěpánovský house)、エルペットのある「雄牛の家」(At the Ox House)。 それぞれとても綺麗な、歴史ある家ばかり
01_20130814_to_17_prague_195

プラハ3日目の夕方、ボヘミア・クリスタルの専門店、 「エルペット (Erpet)」 http://www.erpetcrystal.cz/ でお土産を購入
02_20130814_to_17_prague_1533

ボヘミア・クリスタル、ハンドカットの器とグラスを買いました
03_20130826_003

親切な日本人の店員さんから、 税金払い戻しの方法を教えてもらい、アムステルダムの空港(空港の中をかなり歩いたけれど)で、スムーズに払い戻しができました

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「小広場」(マレ・ナーメスチー、Malé náměstí, Small Square) 。この突き当たりにある、細い道を歩きます。
04_20130814_to_17_prague_1534

振り返って、旧市街広場の方向を見ると、こんな感じ。
05_20130814_to_17_prague_188

それぞれ、家の入口や壁の装飾が凝っています

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

小広場を抜ける前に、聖ミクラーシュ教会の裏手にある 「カフカの生家」。
先ほどの、カフカが両親と暮らしていた、「一分の家」には参りましたが(ただし、暮らしていた時期は、スグラフィットは未発見)、ここも中心部で便利そう。
06_20130814_to_17_prague_1536

本当に見るところが多すぎて、なかなか、私のビール休憩には至りません・・・

つづきます。「プラハ路地散歩 フソヴァ通り 「ぶら下がる男」

| | コメント (0)

プラハ 一分の家 (ミヌタ館)、カフカ幼少時代の家

プラハ 旧市庁舎と天文時計、ミュシャ 「黄道十二宮」」のつづき。★プラハ旧市街 散策マップ 01は、「こちら」、プラハ旧市街散策マップ 02は、「こちら」。
プラハ個人旅行 まとめ記事

「一分の家」(ミヌタ館, Dům U Minuty, The House at the Minute ドゥーム・ウ・ミヌテ)
01_20130814_to_17_prague

「一分の家」は、スグラフィットで装飾された、天文時計から左に5件目の家。

15世紀初頭の後期ゴシック様式の家を、1564年以降、ルネサンス様式に改築。 16世紀末に上の階を増築。

1896年、プラハ市に買い取られ、旧市庁舎に新たに付け加えられました。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

そして、この家、なんと、1889年から1896年にかけ、作家のフランツ·カフカ(Franz Kafka, 1883-1924) が、6才から12才頃までの 7年間、両親と住んでいた家なんです !!!

カフカは、プラハの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、プラハ旧市街の中で何回もお引っ越しをしたのでした。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「一分の家」(ミヌタ館) の美しい 「スグラフィット」 の装飾。 建物の角中央には、木の下で、鹿とともに佇むアダムとイブ。
02_20130814_to_17_prague_030

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

「スグラフィット」(スグラフィート Sgraffito) とは、16世紀、ルネサンス期のイタリアで流行した、掻き取り技法による壁の装飾。
2層に塗られた漆喰の、上部の白灰色の漆喰を掻き取り、下部にある、木炭の粉末で色づけされたベースを浮かび上がらせるもの。

この装飾的なスグラフィットは、16世紀末以前、チェコの貴族 Karel Přehořovský of Kvasejovice がオーナーだった時期と、1603年から1610年、Tito Cantagali の所有だった時期の、2期にわたってに作られました。

ちょうど、1583年に王宮をプラハ城に移した、ルドルフ2世 (Rudolf II)」(1552-1612, 神聖ローマ皇帝在位 1576-1612) の治世にあたります。
ルドルフ2世は、芸術、科学、錬金術のパトロンとして君臨。 プラハには、この時期、ヨーロッパ各地から様々な文化人が集まってきた時期なので、なおさら興味をそそられます

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

壁には、歌い踊る半人半獣のサテュロス、酒の神バッコスの行進。 そのほか、ヘラクレス。 正義、勇気、知恵など、幾多のアレゴリーを表す優美な姿

屋根庇のすぐ下には、当時の統治者たち、スペインのフェリペ2世、マクシミリアン2世、その息子のルドルフ2世など、ハプスブルク家の王の肖像が描かれている。
03_20130814_to_17_prague_190

家の角にあるライオンの彫像は、家の紋章として18世紀末以降に設置されたもの
1712年以前、館の持ち主 Matěj Bartl が営む薬局があり、かつては、「白いライオンの家」と呼ばれていました。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

ところで、かつて、この「一分の館」(ミヌタ館)は、左隣の館とともに、「旧市庁舎広場」(Staroměstské náměstí, Old Town Square) と 「小広場」(マレ・ナーメスチー、Malé náměstí, Small Square) の間の道路整備計画に基づき、取り壊されそうになりました。

しかし、幸いなことに、首都プラハ市の建設・芸術・歴史的モニュメントのリスティングのための委員会がこれに反対し、1905年、近隣の家にいくつかのスグラフィットが発見されるに至って、両方の家とも、あやうく破壊を免れます。

そして、「一分の家」(ミヌタ館) におけるスグラフィット(スグラフィート, Sgraffito)が見つかったのは、ごく最近、1919年。 ちょうど館の修復中のこと まさか、こんなに美しいスグラフィットの装飾が隠されていたとは。 その驚き、いかばかりだったことでしょう

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

現在の家の名前は、「一分の家」(ミヌタ館、Dům U Minuty, The House at the Minute ドゥーム・ウ・ミヌテ)

「一分の家」の名前の由来は、"minuciózní"= minutely detailed という言葉。 かつて、ここで販売されていた「刻み煙草」 ("minced" tobacco) に、ちなんでいます。

.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

確かに、道に出っ張っている「一分の家」。
04_20130814_to_17_prague_029

「一分の家」の向かいに見えるバロック様式の建物は、「黒い(黄金の)天使の家」(Dům U Černého (Zlatého) anděla, House at the Black (Golden) Angel ドゥーム・ウ・チェルネーホ(ズラテーホ)・アヌゲラ)。現在は、「ホテル ウ プリンツェ」 (Hotel U Prince)  https://www.hoteluprince.com/hotel-en

★THE HOUSE AT THE MINUTE (DŮM U MINUTY)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=58974
カフカ博物館 公式サイト 「カフカ幼少時代」(Early Childhood, 英語)
★プラハ旧市街広場の建物の名前は、Jiří Stratil さんのブログ blog.iDNES.cz の記事
http://stratil.blog.idnes.cz/c/404184/Jake-nesou-nazvy-domy-Staromestskeho-namesti.html 建物の写真もあって、大変参考になりました。しかも、
★OLD TOWN SQUARE (STAROMĚSTSKÉ NÁMĚSTÍ)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=42754 の建物番号と同じでわかりやすい!
★田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」116~118頁、参照。

美しいプラハの町並み さらに散策していきます。

つづきます。「プラハ旧市街 散策マップ#2 チェコ土産@エルペット、カフカの生家

| | コメント (0)

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »