プラハ 「壁の中の聖マルティン教会」
「プラハ 「ウ・メドヴィードクー」 ビアホールで本場チェコビール、元祖バドワイザーを飲む」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★プラハ旧市街 散策マップ 02
「壁の中の聖マルティン教会」 (Kostel sv. Martina ve zdi, St Martin in the Wall)
「壁の中の聖マルティン教会」は、1178年から1187年にかけて、建てられました。
その後、1235年、プラハ旧市街の建設がはじまります。
ヴァーツラフ1世(Václav I, ボヘミア王在位:1230年 - 1253年) は、たびたび氾濫を引き起こすヴルタヴァ川(ドイツ語名、モルダウ川)の護岸工事を行い、地盤を上げるべく 2~3 m 土盛りをし、街の周囲を市壁で囲い、まわりに深い濠を堀って水を張り、都市整備を行いました。
「壁の中の聖マルティン教会」は、このとき、旧市街側と、のちに新市外側となる外側、二つに分断されてしまいます。 そして、旧市街側に残った教会、南側の壁は、旧市街の市壁に、そのままはめ込まれてしまったのでした。
これが、この教会の名前の由来。
近くに「聖マーティン門」(St Martin Gate) と呼ばれた町の門が作られました。
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当初はロマネスク様式で建てられましたが、1350年より後、カレル4世の治世中に、ゴシック様式で再建。 天井、ブラケットから伸びる穹稜状のボールトは、プラハにおける最も古いものの一つです。
今日ある後期ゴシック様式での教会の形への再建は、1488年に完成。
写真は、南側の路地裏から見たところ。※写真は Windows Live フォトギャラリーを使用し、パノラマ写真として合成
1414年、ヤン・フスがコンスタンツ公会議へと去った直後、この壁の中の聖マルティン教会で、ヤン・フスも影響を受けたウィクリフ派、ストシーブロのヤコウベクのが始めた、パンと葡萄酒の両方を用いた両形色の正餐が行われました。
これまで、一般人はパンだけが授けられていましたが、葡萄酒も授けられたことから、以後、「聖杯」が、フス派のシンボルになりました
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その後、教会は1678年に火災にみまわれ、塔の上部は、この火災の後に再建。 1779年、道に面した北側、バロック様式の入口が設けられました。
その3年後、女帝マリアテレジアの息子のヨーゼフ2世(Joseph II)は信教の自由を認め、プロテスタントに対する寛容政策を取り、1781年、宗教寛容令(信教容認令)を公布。
ところが、1784年、教会は解散させられ、倉庫、アパート、店舗になってしまいます・・・。
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その後、1904年にプラハ市が教会を購入して、1905年から6年にかけて再建。 塔にネオ・ルネッサンス様式の切り妻を設置。
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した1918年、民族自決の理念に基づきチェコスロヴァキア共和国が独立。
それにあわせて、プロテスタントの 「チェコ兄弟団福音教会」(チェコ同胞福音教会)ができ、この教会の長期賃借権を取得。 現在に至っています。
★公式サイト:http://www.martinvezdi.eu/?lang=en
★http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=52897 (チェコ語)、http://www.martinvezdi.eu/historie?lang=en、http://www.praguecityline.cz/pamatky/kostel-sv-martina-ve-zdi 参照
薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)110頁等、「チェコ兄弟団福音教会」については、佐藤優著「サバイバル宗教論」(文春新書、2014年)131頁参照。
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ちなみに、北側の壁の記念のレリーフは、カレル橋の聖ヤン・ネポムツキー像の木製模型や、聖バルバラ、聖マルガリータ、聖エリーザベト像などを作った彫刻家、ブロコフ(Jan Brokoff)と二人の息子。 彼らが作った像は、プロテスタントではなく、カトリック寄り。
★カレル橋の聖ヤン・ネポムツキー像については、ブログ記事本文: 「プラハ カレル橋 聖ヤン・ネポムツキーの伝説」をどうぞ。
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ところで、現在の、「チェコ兄弟団福音教会」(the Evangelical Church of Czech Brethren (ECCB ), Českobratrská církev evangelická)は、ルター派とカルバン派の合同教会。http://www.e-cirkev.cz/
今まで書いてきたように、チェコにおいて、プロテスタントは徹底的な弾圧を受け、その後も、 さまざまな歴史の変転を経てきましたが、ようやく、プロテスタントの教会に戻った「壁の中の聖マルティン教会」! すごく古いだけが、凄いんじゃないんです!!
と、長くなってしまいましたが、宗教の歴史、その流れを知らずして、一国の姿、ひいては世界のあり方を知ること無し!
・・・なーんて、柄にもなく、ちょっとエラそうに書いちゃいましたが カトリック VS プロテスタントといった宗教的な対立、このような歴史的背景は、チェコ、ひいてはヨーロッパを理解していく上で、欠かせない要素だと思うのです。
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教会の一般への公開は、公式サイトによると、月曜日から土曜日:15.00から17.00まで (それ以外は要コンタクト)。 コンサートも行われています
つづきます。「プラハ建築散歩 散策マップ#3 ヴォディチコヴァ通り (Vodičkova) 「ノヴァック館」、「ミシャーク館」など、カフカの転職」
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コメント
カトリック VS プロテスタントといった宗教的な対立、このような歴史的背景は、チェコ、ひいてはヨーロッパを理解していく上で、欠かせない要素だと思うのです。
今これをテーマにしたイラーセクの「暗黒」の翻訳の出版を準備しています。詳しくは
https://readyfor.jp/projects/temno
を見て下さい
投稿: 浦井康男 | 2016.02.01 10:05
浦井康男様
最近では、イスラムにおける宗教的な対立、その歴史を知らずして、紛争の背景を知ることは不可能だということは自明となっておりますが、かつての宗教的対立である、カトリック対プロテスタントの対立と歴史的背景を知らずして、チェコひいては、ヨーロッパの理解は欠かせないということ、全く同感です。
かつて、このカトリックとプロテスタントとの宗教戦争として始まった三十年戦争が、1648年、ドイツのウェストファリア条約締結によって終結したのと同じように、現在のイスラムをめぐる紛争が終結するといいのですが・・・。
浦井さんが日本翻訳文化賞を受賞された、チェコ歴史小説の第一人者アロイス・イラーセク(1851-1930)の古典『チェコの伝説と歴史』の日本語訳の本、それから、この本に続く時代を扱った同じ作者の『暗黒 ― 18世紀、イエズス会とチェコ・バロックの世界』にも、非常に興味があります。
ネット検索の活用の便宜も図られていて、至れり尽くせりですね!
イラーセクの「暗黒」の翻訳の出版プロジェクトの成功をお祈りしております。
ドヴォルジャークの交響詩の原作が含まれている、エルベン『花束』(私家本)ムハ(ミュシャ)のスラヴ叙事詩の解説(CD版)にも興味を惹かれます。
有益なコメントをどうもありがとうございました。
投稿: きのこ | 2016.02.01 17:52
2016年7月29日に上記『暗黒 18世紀、イエズス会とチェコバロックの時代』(成文社)が出版されました。
投稿: 浦井康男 | 2016.08.09 11:46