プラハ ケプラー博物館、ケプラーによる天文学の発展と、ルドルフ2世
「プラハ路地散歩 フソヴァ通り、カルロヴァ通り クラム・ガラス宮殿、カフカの研修生時代」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事
さて、ようやく 「カレル橋」(Karlův most, Charles Bridge)が見えてきました。
このプラハ旧市街、カレル橋手前の 「カルロヴァ通り」 (Karlově ulici) 沿い、 「フランス王冠の家」 The house "At the French Crown", U Francouzské koruny に、 ヨハネス・ケプラーが、1607年から1612年にかけて住んでいました。(写真左側から2番目、ベージュの壁の建物)
現在、「ケプラー博物館」 "Kepler Museum" (KEPLEROVO MUZEUM V PRAZE) 。http://www.keplerovomuzeum.cz/
ヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler, 1571-1630) は、ドイツの数学者、天文学者、占星術師。
地動説を唱えたコペルニクス、ガリレオ・ガリレイとともに、ルネサンス期における、最も偉大な天文学者の一人とされています。
私がケプラーに興味を持ったのは、たまたま近所の日本橋図書館で、ジェームズ・R. ヴォールケル (著)、林 大 (翻訳) 「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)」(大月書店, 2010) に出会ったから。
右側の英語のペーパーバック版、Johannes Kepler and the New Astronomy, by James R. Voelkel の装丁と比べると、圧倒的に親しみやすくて素敵な装画
この小笠原ありさんの装画に惹かれて、パラパラ本を読んでいくうち、どっぷり、ケプラーの伝記にハマってしまいました。
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1583年に王宮をプラハ城に移した、ルドルフ2世 (Rudolf II)」(1552-1612, 神聖ローマ皇帝在位 1576-1612)。
この芸術、科学、錬金術のパトロンとして君臨した皇帝の下、ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630) は、1601年、帝国数学官に任命されます。
ルドルフ2世の庇護の下、前任者だったデンマーク王国出身の偉大な天文学者、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)による正確な天体観測結果を引き継いだケプラーは、惑星の運行の法則に関する 「ケプラーの法則」(Kepler's laws of planetary motion) を発見。
ケプラーの法則は、(1) 惑星は、太陽を焦点とする楕円軌道を描いて運行する、(2) この楕円軌道において、惑星と太陽とを結ぶ線分が一定時間に描く図形の面積は一定である、(3) 太陽系の惑星の周期の2乗と、太陽からの距離の3乗の比は同じ、という3つの法則。(詳しくは、前掲書などを参照して下さい)
この発見は、のちにニュートンによる万有引力の発見につながりました。
そして、「ルドルフ表」(the Rudolphine Tables)-どの時代の惑星の位置も、表そのものによって計算できる「天体運行表」-を作成。
そのほか、17世紀の光学理論の土台となった、「天文学の光学的部分」などを発表。
これは、後に、ケプラー望遠鏡の開発へと繋がっていきます。
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このように、帝国数学官だったケプラーは、ルドルフ2世、その後継者であるマティアス、そしてフェルディナンド2世の庇護の下、天文学上、めざましい功績を上げました。
しかし、それ以前には、ケプラーは、そのプロテスタントの信仰ゆえにカトリックからの迫害を受け、プラハ移住以前には、教職に就いていたグラーツの地から、追放される憂き目にあっていたのです。
そして、パトロンだったルドルフ2世が亡くなった後、リンツに移ってプロテスタントの学校で数学の教師となるも、1618年の「第二次プラハ窓外投擲事件」に端を発した、「30年戦争」が勃発 (1618年から1648年)。
「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) のあとの、1621年6月21日には、プロテスタントの反乱の首謀者、ケプラーの旧友も処刑されてしまいます。
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そんな中、ケプラーの母親が「魔女裁判」にかけられ、告発はどうにか退けられたものの、拷問のおどしによる尋問を受けたためか、解放からわずか半年後に死亡、という悲運にみまわれてしまうのです。
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その後、リンツにおいて、カトリックによる反宗教改革の嵐が吹き荒れ、反乱軍による騒乱ののち、家族とともにレーゲンスブルクへ。 そこに家族をに残して、「ルドルフ表」の印刷のため、ウルムへ。
フェルディナント2世によって、帝国数学官への任命が承認されるも、カトリックへの改宗が条件とされたため、ヴァレンシュタンイン将軍お抱えの数学者に転向。
しかし、移住したザーガンにおいても、カトリックによる反宗教改革の嵐が吹き荒れます。
しかも、パトロンとなったヴァレンシュタンイン将軍は辞職させられ、報酬は未払いのまま・・・。
そこで、選帝侯の集まりが行われていたレーゲンスブルクに赴く、ケプラー。
まさかその途上で、病に冒され、この世を去ることになろうとは・・・。
★The Kepler Telescope Channel
Johannes Kepler's law of Planetary Motion - Greatest moments in Science
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宗教による迫害、戦争と、苦難の連続だったケプラーの人生。 その歴史的背景を抜きにして、ケプラーの人生は語れません。
本書では、その背景となった歴史が丁寧に語られ、激動の人生を生きたケプラーの姿が、鮮やかに描き出されています。
また、ルドルフ2世というと、とかく占星術や錬金術に没頭した面がクローズアップされがちですが、ケプラーが重要な天文学上の発見にするにあたって、好ましい環境を提供したことに、もっと光をあてるべきでは?
ケプラーは、彼が仕えたルドルフ2世やヴァレンシュタンイン将軍のため、天文的知識と数学的知識を駆使して占星術も行いましたが、前述のようなケプラーの法則の発見などに比べれば、ケプラーにとっては、それがメインではないと思われるのです。
★http://johanneskepler.info/ Johannes Kepler Info
・・・ケプラー・ファン必見かもな 「ヨハネス・ケプラー・インフォメーション」のサイト
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それにつけても、まさか、数学、物理にそれほど詳しくはない、専業主婦の私が、これほど天文学者の伝記本にハマってしまうとは・・・。
実際、書店や図書館などで、実際、本を手にとってみるって大切だなぁ、と思いました。
★KEPLER MUSEUM (KEPLEROVO MUZEUM V PRAZE)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=73626(チェコ語)
★KEPLER JOHANNES (JAN)
http://www.praguewelcome.cz/cs/pamatky/o-praze/slavne-osobnosti/veda/59-kepler-johannes-jan.shtml(チェコ語)
★http://www.kralovskacesta.cz/en/tour/objects/at-the-french-crown.html
★http://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Kepler
★ジェームズ・R. ヴォールケル (著)、林 大 (翻訳) 「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)」(大月書店, 2010)参照
つづきます。「プラハ 旧市街橋塔 カレル4世像」
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