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2014年7月の19件の記事

プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠

プラハ城 旧王宮 ヴラジスラフ・ホール」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ城 旧王宮、ヴラジスラフ・ホール(Vladislav Hall)の南西側に張り出した 「ルードヴィヒ翼」(Ludwig Wing)には、「プラハ窓外放擲事件」の現場となった、行政局(Bohemian Chancellery)の部屋があります。
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「(第二次)プラハ窓外放擲事件 The second Prague Defenestration」が発生したのは、1618年5月23日。

ボヘミアのカトリック推進政策により、北ボヘミアでプロテスタントの礼拝堂が閉鎖され、さらには、ウィーンの神聖ローマ皇帝マティアスによって、プロテスタントの諸身分の議会が中止されたことに反発したボヘミアの貴族が、行政局の部屋に押し入り、二人の高官と一人の書記官を、二階の窓から投げ落としたという事件です。

三人とも軽傷ですみ、二人の高官は、近くのロブコヴィッツ宮殿に逃げ込み、書記官は逃亡。

この事件が、「30年戦争」(1618 - 1648)のきっかけとなりました。

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ヴラジスラフ・ホールのバルコニーから、先ほど見学した、プラハ窓外放擲事件のあったルードヴィヒ翼(Ludwig Wing)を見る。
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https://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/old-royal-palace.shtml
★旧王宮マップ http://www.planetware.com/prague/prague-castle-cz-pr-pc.htm

★第一次プラハ窓外放擲事件については、「プラハ旧市街 散策マップ#1 ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)、火薬塔」。
・・・ボヘミアにおいては、窓から要人を投げ落とすという行為が、支配者への反抗を示すものとなる。

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1617年6月、ルドルフ2世の弟マティアスから、ボヘミア王位を承継した従弟(いとこ)、フェルディナント2世(Ferdinand II, 、神聖ローマ皇帝在位:1619 - 1637)は、イエズス会の教育を受けた、熱烈なカトリック教徒。

皇帝の代理人を追い出した後に結成された「ボヘミア連合」は、皇帝マティアスが1619年3月20日に亡くなると、1619年8月19日、フェルディナントの廃位を宣言。

その当時、ドイツ、ハイデルベルク城を居城としていた、プロテスタントのカルヴァン派、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世(Friedrich V.,1596 - 1632)は、ボヘミア王位を受任。

1619年11月3日、聖ヴィート教会で、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は、その妻、イングランド王ジェイムス1世の娘 エリザベス·スチュアートとともに、戴冠式をあげました。

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その結果、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世を盟主とする、プロテスタント同盟 (Protestant Union, 1608) VS カトリック連盟(Catholic League, 1609)との間で 「30年戦争 The Thirty Years' War」(1618-1648)が勃発。

1620年11月8日、プラハ近郊にある 「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」 (Battle of White Mountain) で、プロテスタント軍は、あっけなく敗北してしまいます。

フェルディナント2世が王位に就き、1621年6月21日、プロテスタントの反乱の首謀者、上級貴族3名、下級貴族7名、市民17名、合計27名が、プラハの旧市庁舎前の広場で処刑されたのでした。

★薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)256頁~268頁。
ジェームズ・R. ヴォールケル 著、林 大 翻訳「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)(大月書店 2010年) 」129頁~149頁参照。

★プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の居城だった、ドイツのハイデルベルク城 (Schloss Heidelberg) については、以前書いたエントリー記事、「ハイデルベルク城を見学する 01城の歴史」参照。

プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋にあった説明文を参照。
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ルードヴィヒ翼(Ludwig Wing) 他の執務室も見学。
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昔の図版にあるような窓。
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ヴラジスラフ・ホールのバルコニーからの絶景 ※Windows Live フォト・ギャラリーで作成したパノラマ写真
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ヴラジスラフ・ホールの突き当たりにある扉の向こうが、ペトル・パルレーシュによって建てられた、「諸聖人の礼拝堂」 (All Saints' Church)。この教会は、土曜日4時の礼拝、または、コンサートのときのみ公開。
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「議事の間」(The Diet Hall)
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ここで、中世から、ボヘミア王国の王と貴族の間の交渉が行われたほか、裁判が行われ、重要な決定が下されました。
現在見ることができるのは、1559年から1563年にかけて Bonifác Wolmut により改修されたもの。

陶器製ストーブと、マリア・テレジアなどの肖像画
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「ヴァーツラフの王冠」、「ボヘミアの笏」、「ボヘミアの宝珠」 のレプリカ。 とっても豪華
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以上、見学コースにあった議事の間(The Diet Hall)と王冠等の説明を参考にしました。
"Crown of Saint Wenceslas" 1344-1345, 1374-1378 金、真珠、ルーベライト、トルマリン、スピネル、サファイア、アクアマリン、ルビー、エメラルド、カメオ。"Bohemian Sceptre"(1532-1534)。"Bohemian Orb"(1532-1534)
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つづきます。「プラハ城 聖イジー教会 St. George’s Basilica

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プラハ城 旧王宮 ヴラジスラフ・ホール

プラハ城 聖ヴィート大聖堂 黄金の門、南庭園への雄牛の階段」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

旧王宮の見学入口 Old Royal Palace
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ヴラジスラフ・ホール The Vladislav Hall
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花びらの模様のような、美しいリブ・ヴォールトの天井が印象的な、ヴラジスラフ・ホールは、南ドイツ出身のベネディクト・リート(Benedikt Ried, 1454 – 1536)によって、1493年から1502年にかけて建てられました。
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幅16m、奥行き62m、高さ13mの、柱のない巨大なホール。 ここでは、戴冠式、騎士による馬上槍試合、マーケットなどが開催され、近年においては、チェコ大統領選挙が行われています。

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写真左の「騎士の階段」は、馬上槍試合に出場する騎士が、ここから馬に乗ってホールに入るために作られました。複雑な後期ゴシック様式のリブ·ボールトの天井と、この通路、周縁の形に注目です
写真右は、凝った意匠のドアの 把手。
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馬上槍試合は、スカパーで放送していた海外ドラマ、「THE TUDORS~背徳の王冠~」 で見ましたが、ドラマでは、ヘンリー8世も瀕死の重傷を追ってたし、なんて危険極まりない試合なのかと、ハラハラしながら見てました。
日本における「御前試合」(ごぜんじあい)みたいな感じかな?

騎士の階段の先
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この先にある、お土産コーナーで、プラハ城の南塔から見たパノラマ・ガイド(CZK 120)と、ヴァーツラフの王冠、ボヘミアの笏、ボヘミアの宝珠のポストカード(CZK 10)を購入しました。
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「議事の間」(the Diet Hall)側から見た、ヴラジスラフ・ホール
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最初の写真を撮った、見学入口側
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http://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/old-royal-palace.shtml
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=187316
http://cs.wikipedia.org/wiki/Benedikt_Rejt
★カール シュヴァルツェンブルク公ほか(著)、稲野強(監訳)、「プラハ城―歴史と遺産」(恒文社、1995年)76頁
★田中充子著 「プラハを歩く (岩波新書)」 52、53頁など参照。

次に、ヴラジスラフ・ホールから、「議事の間」(the Diet Hall)、そして、1618年、プラハ城の窓外投擲事件の舞台となった部屋へ。
★旧王宮マップ http://www.planetware.com/prague/prague-castle-cz-pr-pc.htm

つづきます。「プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠

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プラハ城 聖ヴィート大聖堂 黄金の門、南庭園への雄牛の階段

「プラハ城 聖ヴィート大聖堂 聖ヴァーツラフ礼拝堂」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

「聖ヴィート大聖堂」 St. Vitus Cathedral
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時計のある南塔は、99.3m 。見学の最後に、287段 の階段を上まで登りました。 記事は後ほど。

南塔は、カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、カレル1世としてボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の命を受けた、ペトル・パルレーシュ(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330または1333年から1399年)によって建設が開始され、16世紀と18世紀に再建されました。

http://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/index.shtmlのSOUTH TOWER OF ST. VITUS CATHEDRALの解説参照

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「黄金の門」 (Golden Gate, Zlatá brána) の上にある 「最後の審判」のモザイク画は、1370年から 1371年にかけて作られたもの。
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http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=45093
https://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/st-vitus-cathedral.shtml
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/zlata-brana

この門の近くにあった、聖ヴィート大聖堂の格子飾り。 中世の生活を垣間見ることができる飾りが印象的でした。
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ところで、聖ヴィート大聖堂の黄金の門のある南側の写真は、反対側にある、「首相官邸」から撮影しました。
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聖ヴィート大聖堂から見た、第三の中庭。

聖イジーの騎馬像の隣にある、「石柱」 (The monolith)は、第一次世界大戦の犠牲者の記念碑。 1928年、有名なスロベニアの建築家、ヨジェ・プレチニック Jože Plečnik (Josip Plečnik, 1872-1957) によるデザイン。
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そして、聖ヴィート大聖堂の向かい側、旧王宮への入口のすぐ近くには、南庭園、見晴らしの良いテラスへの入口。

この入口、なぜガイドブックに書いてないのか不思議すぎ。。

写真右側、旧王宮への入口の右が南庭園への入口。この入口には、先ほどの石柱をデザインした、ヨジェ・プレチニック Jože Plečnik が設計した 「プレチニックの階段」(Plečnik’s Staircase)、別名、「雄牛の階段」 (Bulls’ Staircase, Býčí schodiště) があります。

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★プラハ城、公式サイトのバーチャルツアー http://www.hrad.cz/en/prague-castle/virtual-tour/index.shtml の映像+説明を加えました。
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この、「プレチニックの階段」(Plečnik’s Staircase)、別名、「雄牛の階段」 (Bulls’ Staircase, Býčí schodiště)、EAMONN CANNIFFE さんのブログ http://guttae.blogspot.jp/ で紹介されていたページ、 http://guttae.blogspot.jp/2014/05/joze-plecnik-1872-1957-bull-staircase.html を見たら、見逃しちゃったのを激しく後悔  次回は是非!!

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そして、「プラハ城の物語」"The Story of the Prague Castle" の展示も、入口を見逃し、入り損ねてしまっていたので、残念でたまりませんでした

http://www.hrad.cz/en/prague-castle/the-story-of-the-prague-castle.shtml

入口は、この第三の中庭と、聖イジー広場(St. George's Square)にあるらしく、検索したら、http://www.heritage-route.eu/ のサイトの、この写真がヒットしました。

もっとも、プラハ城をじっくり見学しようと思ったら、少なくとも、丸一日はかかりそう

次に、ヴラジスラフ・ホールのある、旧王宮へ。

つづきます。「プラハ城 旧王宮 ヴラジスラフ・ホール


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プラハ城 聖ヴィート大聖堂 聖ヴァーツラフ礼拝堂

プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャのステンドグラス、聖ヤン・ネポムツキーの墓」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

「聖ヴァーツラフ礼拝堂」 Kaple sv. Václava, St. Wenceslas Chapel, St. Vitus Cathedral, Prague Castle
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聖ヴァーツラフ礼拝堂は、チェコの守護聖人となった、「ヴァーツラフ1世」(Václav I, 907 - 935)に捧げられた礼拝堂。

1372年、カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、カレル1世としてボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の命により、「ペトル・パルレーシュ」(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330または1333年から1399年)の監督の下、1300個以上もの貴石と金メッキの漆喰とで、壁が装飾されました。

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右側の手前にあるのは、聖遺物祭壇。 中央、ボヘミアの守護聖人と二人の天使の間には、「聖ヴァーツラフ像」。
壁上方には、宮廷画家オズワルドによるキリストの受難の場面や、16世紀に描かれた、聖ヴァーツラフの伝説からのエピソードの壁画などで、埋め尽くされている。
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北側入口。 見学は外側からのみで、中には入れません。 複雑な星状ヴォールトの天井は、ヴァーチャル・ツアー とても美しくて、何遍も見てしまいました。
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北側入口から聖ヴァーツラフの礼拝堂の中を見る。 入口の彫刻にも注目 写真右、南西にある扉は、「王冠の間」につながる階段への入口。
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ヴァーツラフ1世の頭蓋骨が聖遺物として保管されている。
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/svaty-vaclav
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http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/kaple-sv-vaclava
https://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/st-vitus-cathedral.shtml
http://www.prague.net/st-wenceslas-chapel
★カール シュヴァルツェンブルク公ほか(著)、稲野強(監訳)、「プラハ城―歴史と遺産」(恒文社、1995年)参照。

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★礼拝堂の説明 http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych
★ヴァーチャル・ツアー(Virtual tour) http://www.katedralasvatehovita.cz/flash/virtualni_prohlidka/index.html

地下クリプトには、代々のボヘミア王国の支配者の墓があり、これも、ヴァーチャル・ツアーで見られるようになっています。

★St Vitus, Václav and Vojtěch - Cathedral (Sv. Vít, Václav a Vojtěch - katedrála - Pražský hrad)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=45093

つづきます。「プラハ城 聖ヴィート大聖堂 黄金の門、南庭園への雄牛の階段

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プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャのステンドグラス、聖ヤン・ネポムツキーの墓

プラハ城 聖ヴィート大聖堂」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

聖ヴィート大聖堂 St. Vitus Cathedral 聖堂内部
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聖ヴィード大聖堂の正式名称は、「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイチェフ大聖堂」 St. Vitus, Václav and Vojtěch - Cathedral この3人の聖人を奉っています。

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アルフォンス・ミュシャ (チェコ語でムハ、Alfons Mucha, 1860年 - 1939年)のステンドグラス。
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左側 3番目にあるミュッシャのステンドグラスは、1931年作。 色彩もとても美しく、とても魅了されました。

聖ヴィート大聖堂自体は無料で入場できますが、ステンドグラスを近くで見るには、有料のチケットが必要です。

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ところで、キリルとメトディオスは、スラブ人にはじめてキリスト教をひろめた、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟です。

元々、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、モラヴィア王国から、「スラヴ語でキリスト教の信仰を広めてくれる人物を派遣してほしい」、という依頼受けて、モラヴィアに二人を派遣したのでした。

弟キリルは、スラヴ語を書き表す文字を考案し、キリスト教関係の書物を古代スラヴ語で翻訳。 ステンドグラスの絵で、キリルが本を携えているのは、それにちなんだ画なのです。

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プシェミスル王朝のポジヴォイ1世 (Bořivoj I, Duke of Bohemia, c. 852 – c. 889) は、歴史上初めて記録に登場したボヘミアの君主で、プシェミスル王朝(Přemyslid dynasty)の創始者です。

ポジヴォイ1世は、妻リュドミラ(Ludmila)とともに、前掲の兄メトディオスから、キリスト教の洗礼を受けました。
そして、880年頃、プラハ城を創設

中世初期のプラハ城は、堀に囲まれた砦。 その中に、プラハ城における最古のキリスト教の教会、「聖母マリア教会」(the Church of Virgin Mary, c. 880 - c.890)が建てられました。※「聖母マリア教会」は、ボヘミアでは2番目に古い教会で、ボヘミア最古のキリスト教の教会は、レヴィ・フラデツの「聖クレメント教会」 Levý Hradec にある Church of Saint Clement

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そして、929年、ポジヴォイ1世とリュドミラの孫の、「ヴァーツラフ1世」(Václav I, 907 - 935)は、ドイツのザクセン王朝ハインリヒ1世から、(ザクセンの聖人として崇拝されていた)「聖ヴィートの聖遺物 - 聖ヴィートの腕」、入手。

ヴァーツラフ1世は、この聖遺物を収めるために、「ロトンダ」(rotunda, 円形教会堂)を建て、それが、聖ヴィート大聖堂の前身となりました。
そして、ヴァーツラフ1世は、自らも、そこに埋葬され、後に、聖ヴァーツラフとしてチェコの守護聖人となりました。

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中央上から、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟、聖キリルと聖メトディオス。右の兄、メトディオスから洗礼を受ける、プシェミスル王朝のポジヴォイ1世。
その下、ポジヴォイ1世の妻、リュドミラと、後に聖ヴァーツラフとなる、孫の「ヴァーツラフ1世」(Václav I, 907 - 935)が描かれています。※画像クリック、拡大してご覧下さい。
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973年、プラハにキリスト教の司教座が置かれ、1060年、従前のロマネスク様式のロトンダは、3つの身廊と2つの尖塔を有する、ロマネスク様式のバシリカ(教会堂)へと改築。

1344年、カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、カレル1世としてボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の尽力により、ドイツのマインツ大司教座の下に置かれていたプラハの教会を、独立した「大司教区」にまで昇格。
これを機に、聖ヴィート大聖堂は、現在のゴシック様式の大聖堂へと再建されることになりました。

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カレル4世の命を受け、当初は、フランス人建築家、マティアス (Matthias of Arras) がアヴィニオンから招聘され、新聖堂を設計。

そのマティアスが早逝した後、 弱冠23才のドイツ出身、「ペトル・パルレーシュ」(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330または1333年から1399年)が、ドイツ、シュヴァーヴェン地方のグミュントから招聘されて、網状リブ・ヴォールトの天井、聖ヴァーツラフの礼拝堂、南塔、黄金門などを設計・監督。

天井の交差リブ・ヴォールトも美しい 右は、西正門の薔薇窓。
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薔薇窓
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途中、フス戦争などで建築は中断し、ネオ・ゴシック様式の正面ファサードが完成したのは、建設が開始された1344年から、なんと、600年以上を経た、1929年9月28日のことでした・・・。

https://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/st-vitus-cathedral.shtml
http://www.hrad.cz/en/prague-castle/history/history-of-prague-castle.shtml
http://www.kulturanahrade.cz/en/st-vitus-treasure/exhibitions/the-treasury-of-st-vitus-cathedral-250.shtml
★薩摩秀登著「物語チェコの歴史―森と高原と古城の国 (中公新書、2006年)」3頁~23頁参照。

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本当はこんな感じ。上の写真は、かなりズームアップで撮影。 右は、聖具室に出るための螺旋階段。
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中央前方にある「王室霊廟」
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告解室。 王室御用達だからか、彫刻の装飾が凝りまくっている・・・。
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光溢れる側廊から、厳かな雰囲気の後陣へ
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「旧大司教の礼拝堂」 (Stará arcibiskupská kaple, J. Mocker, J. Mráz, oltář sv. Vojtěcha)
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/stara
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「王室礼拝堂」(Královská oratoř, The royal oratory (chapel))。 この細かなディテールまでが美しすぎる ※クリックして拡大、推奨!
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/kralovska-orator
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多枝の木材を使い、漆喰によって豪華に装飾された王室礼拝堂は、15世紀末に、ハンス・シュピース Hanuš Spiess と ベネティクト・リート Benedikt Ried によって 建造されました。

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パイプオルガンと、「聖ヤン・ネポムツキーの墓」
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「聖ヤン・ネポムツキーの墓」。
ウィーンの有名な建築家、フィッシャー・フォン・エルラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach, 1656-1723) の設計図に基づき、約2トンの純銀!を使って作られました。 silver tombstone of John of Nepomuk (1733 - 1736) made by Emanuel Fischer of Ehrlach
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写真左は、「レオポルト・シュリック (Leopolda Šlika) 伯爵のバロック式墓碑」(1723年) "Náhrobek Leopolda hraběte Šlika" 同じく、フィッシャー・フォン・エルラッハの設計に基づいて作られたもの。

写真右は、「枢機卿シュヴァルツェンベルクの像」 "Socha kardinála Schwarzenberga"(フレデリック・ヨーゼフ・シュヴァルツェンベルク "Bedřich Josef Schwarzenberg")
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シュヴァルツェンベルク家、枢機卿を輩出するだけの豊富な財力を持つ、有力貴族だった証です

http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/nahrobek-leopolda-hrabete-slika
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=45093
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/kardinal-schwarzenberg

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「聖アンドリュー礼拝堂」 "Ondřeje (Martinická kaple)"。 この美しい壁画と天井。好みだわ~
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych/kaple-sv-ondreje
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写真左は、「聖アンドリュー礼拝堂」のステンドグラス。 ・・・こういった、オーソドックスなタイプのステンドグラスの方が、私には、ミュッシャよりツボだったりする(1880年)。

写真右は、聖ヴィート大聖堂を入ってすぐ右側に並んでいる礼拝堂で、左から「トゥーン礼拝堂」、「聖墓礼拝堂」、「聖リュドミラ礼拝堂」。 ステンドグラスから差し込む、色とりどりの光も、また美しかった。
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych
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★St. Vitus, Václav and Vojtěch - Cathedral
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=45093
https://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/st-vitus-cathedral.shtml
http://www.katedralasvatehovita.cz/cs/historie-a-dedictvi/informace-o-kaplich-a-svatych

ほかにも、聖ヴァーツラフ礼拝堂など、見所満載。

写真が多くなりすぎ、すみません。 これでも、かなり自粛してます。。

つづきます。「プラハ城 聖ヴィート大聖堂 聖ヴァーツラフ礼拝堂

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プラハ城 聖ヴィート大聖堂

プラハ 路面電車でプラハ城へ マロストランスカーで乗り換え&城に到着」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

「プラハ城」 "Pražský hrad" (プラフスキー・フラッド Prague Castle)。 第二の中庭に通じる入口。
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緑深き鹿の谷。 ポーズを決める観光客と、動じない守衛さん。 私たちも記念撮影。
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さっきの入口を入ってすぐ左。 とてもすいていたチケット売り場。 日本語の案内もありました。

私たちは、ロングツアー(Prague Castle – Circuit A, CZK 350 (チェコ・コルナ))のチケット+写真撮影(photographing) CZK 50 チェコ・コルナ)のチケット購入。

見学チケットは、二日間有効ですが、ロングツアーなければ見られない、exhibitions The Story of Prague Castle、Prague Castle Picture Gallery, Powder Tower (火薬塔) までは、結局見なかったので、ショートツアー(Prague Castle – Circuit B, CZK 250)でもよかったかも!?

※写真撮影は、フラッシュなし、三脚なしのみ許可。 exhibitions The Story of Prague Castle, The Treasure of St. Vitus Cathedral and in Prague Castle Picture Gallery での撮影は不可。

★プラハ城のチケット情報:https://www.hrad.cz/en/prague-castle/prague-castle-tourist-information/tickets.shtml
★プラハ城の情報 公式 PDF(日本語あり) http://www.hrad.cz/file/cs/prazsky-hrad/HRAD-plan-hradu.pdf
・・・プラハ城の地図&別料金が必要かどうかももわかりやすい
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/54-prague-castle.shtml
★英語のビジターガイド:http://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/index.shtml
https://www.katedralasvatehovita.cz/en

★聖ヴィート大聖堂が見学できる時間。季節&曜日により違うので、要チェック! Opening hours for visitors of the SS Vitus, Wenceslas and Adalbert Cathedral
http://www.katedralasvatehovita.cz/en/practical-information

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写真左は、さきほどの入口を入って、すぐ左にあったチケット売り場。 すいていて、とてもスムースに買えたし、日本語での掲示もありました。

写真右は、第二の中庭に入ったところ。奥にある白い建物は、「聖十字架礼拝堂 (The Chapel of the Holy Cross)」(1756-1764)。
「聖ヴィート大聖堂宝物展 (The Treasury of St. Vitus Cathedral Permanent Exhibition)」(別売りの入場券 CZK 300が必要)が開催されています。
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http://www.kulturanahrade.cz/en/st-vitus-treasure/exhibitions/the-treasury-of-st-vitus-cathedral-250.shtml
http://www.hrad.cz/en/prague-castle/calendar-of-prague-castle-actions/374.shtml
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=51719

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第二の中庭の謎のカゴは、井戸。 第二の中庭から、聖ヴィート大聖堂へと、建物の中をくぐり抜けると、、
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「聖ヴィート大聖堂」 St. Vitus Cathedral
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いきなり、すごい大きいバロックの大聖堂で驚いた。※写真は Windows Live フォトギャラリーを使用し、パノラマ写真として合成。

http://www.hrad.cz/en/prague-castle/guidepost-for-visitors/st-vitus-cathedral.shtml

つづきます。「プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャのステンドグラス、聖ヤン・ネポムツキーの墓

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プラハ 路面電車でプラハ城へ マロストランスカーで乗り換え&城に到着

プラハ 共和国広場 Náměstí Republiky」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

路面電車は、共和国広場から、ヴルタヴァ川にかかる 「シュテファニーク橋」"Štefánikův most" (シュテファニクーフ・モスト) を渡って、対岸へ。 遠くに、プラハ城が見えている
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写真左は、ヴルタヴァ川下流側を見たところ。
写真右は、車窓から見た 「チェフ橋」"Čechův Most" (チェフーフ・モスト, Čech's Bridge)。 路面電車の架線が張り巡らされていた。
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「マロストランスカー」 (Malostranská) に到着。 乗り換え中
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「マロストランスカー」 (Malostranská) の停留所。 "směr Pražský hrad" =プラハ城の方向、と書いてある
※ směr スメール = 方向 direction, Pražský hrad プラフスキー・フラッド = プラハ城, Prague Castle
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停留所の近くにある、この建物の地下に、地下鉄A線 「マロストランスカー駅」 (Malostranská) あり。 翌日、この建物の一階にある、「メトロ・カフェ (Metro Cafe)」、庭園の見えるテラス席で休憩しました。
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写真左は、旧登城道 "Staré zámecké schody"のすぐ近く。 ここから、路面電車は大きく左折。 緑の多いところを抜け、走っていた。
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"Pražský hrad" プラフスキー・フラッド = 「プラハ城」 (Prague Castle) の停留所に到着。 ここから、まっすぐ先に歩いていくと、プラハ城、第二の中庭へ。
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つづきます。「プラハ城 聖ヴィート大聖堂

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プラハ 共和国広場 Náměstí Republiky

プラハ 路面電車でプラハ城へ ★路線図&時刻表」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ二日目、2013/8/15(木) は、路面電車に乗って、プラハ城まで。

プラハの路面電車に乗車した、「共和国広場」 Náměstí Republiky。 ホテルから近いので、ここの停留所をなんべんも利用しました。

「市民会館」 (Obecní dům)
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市民会館の、道をはさんだお隣の建物も、非常に美しい。
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「共和国広場」の北側。 広場はすべて石畳。
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路面電車の停留所がある場所。
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右は市民会館。 中央の建物は、「チェコ国立銀行」(Česká Národní Banka)。チェコの中央銀行、金融市場監督機関で、一般の銀行ではありません。
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路面電車 「共和国広場」 Náměstí Republiky の停留所。
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つづきます。「プラハ 路面電車でプラハ城へ マロストランスカーで乗り換え&城に到着

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プラハ 路面電車でプラハ城へ ★路線図&時刻表

プラハ 夜の散歩 ウンゲルト グラノフスキー宮殿」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ二日目、2013/8/15(木) は、路面電車に乗って、プラハ城まで。

 路面電車 5番で Náměstí Republiky (共和国広場) から Malostranská (マロストランスカー) まで。
 路面電車 22番に乗り換え、Malostranská (マロストランスカー)から Pražský hrad (プラハ城)まで。

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まずは、Náměstí Republiky (共和国広場) から、5番 Podbaba 行きの路面電車(Tramvaje トラム)で、Malostranská (マロストランスカー) へ。
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Náměstí Republiky 「共和国広場」、路面電車の停留所
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★切符は地下鉄と路面電車共通。切符の代金は、http://www.dpp.cz/en/fares-in-prague/

濃い色の切符は、ホテルでとりあえず購入した、90分/32Kč (チェコ・コルナ)のもの。 地下鉄の駅の自動販売機で購入した、24時間/110Kč と 90分/32Kč。それから、 「ストラホフ修道院」の近くにある、Pohořelec の停留所にあった自動販売機で購入した、30分/24Kč の切符。 予定時間にあわせて使い分けました。
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★最初に乗ったら、刻印機に、矢印の方向に切符を入れて、刻印。
車内の電工表示板に行き先が表示されるので、路面電車で目的地に行くのは、それほど難しいことではなく、事前に路線図&地図で停留所などを調べておいたので、まったく迷わず、ラクに行くことができました。
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★プラハの地下鉄と路面電車 路線図は、PDF Metro and trams (stops) の地図をダウンロード
http://www.dpp.cz/en/transport-around-prague/transit-schematics/

A3拡大コピーして持っていって、とても役に立ちました。
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チェコの観光地図 http://mapy.cz/ Praha を使うと、簡単に、プラハの路面電車の路線図&時刻表を調べることができます。

パソコンの Webブラウザ、「Google Chrome」(グーグル・クローム) を使用。そのオプション、Google 翻訳 で 「日本語に翻訳」を選択。
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※地図左上 「Změnit mapu」= マップを変更をクリックして、Turistická 観光客のマップに変更。 画面をわかりやすいように、若干修正。

Náměstí Republiky 共和国広場 から、5 Podbaba 行きの路面電車(Tramvaje トラム)

★プラハの公共交通サーチ
http://jizdnirady.idnes.cz/praha/spojeni/

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乗り換え時間は、5分以上ないとキツイかも。 乗り換え1回で、約20分弱で到着しました。

路面電車の停留所は、さきほどの地図を拡大。 地図左上 「Změnit mapu」= マップを変更をクリックして、Turistická 観光客のマップに変更。右側通行を考慮しつつ、路面電車のマークをクリック。
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2013年8月当時の時刻表。 月日が経つと、変更されると思いますので、最新情報で要確認
Pracovní dny 平日、Sobota 土曜日、Neděle 日曜日。
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つづきます。「プラハ 共和国広場 Náměstí Republiky

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プラハ 夜の散歩 ウンゲルト グラノフスキー宮殿

プラハ 夜の散歩 旧市街の路地、旧市街広場」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事 ★プラハ旧市街 散策マップ04 抜け道編

ティーン教会の裏手にある、「ウンゲルト」(Ungelt) の入口
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「ウンゲルト」(Ungelt) の中。 左から、「グラノフスキー宮殿」 (Palác Granovských z Granova, Granovský Palace) そして、チェコのナチュラル・スキンケア・ブランド 「ボタニクス」 (BOTANICUS) の店舗。
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ウンゲルトの館のほとんどは、ウンゲルトが火災で焼失した1689年以降に建てられたバロック様式の建物ですが、その多くの建物の起源は、15世紀初頭に遡ります。

このグラノフスキー宮殿は、なかでも最も保存状態の良いルネサンス様式の建物の一つ。

1558年、フェルディナント1世は、忠を尽くした税関吏、ヤクプ・グラノフスキー(Jakub Granovský of Granov)に、この館を付与。 16世紀中頃、新しい所有者によって、ルネサンス様式に改築されました。

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写真左は、ウンゲルトを、「聖ヤクプ教会 (Bazilika sv.Jakuba, St. James Basilica)」側へと抜ける通路。 写真右は、ウンゲルトの外側。 ホテルに戻る途中、振り返って撮影。
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ところで、「ウンゲルト」(Ungelt) は、その昔、外国商人の居留地のあった場所。

そして、「ティーン教会」の正式名は、「ティーンの前の聖母マリア教会」(Kostel Matky Boží před Týnem, Church of Our Lady before Týn (Church of the Virgin Mary before Týn))。
ティーン (Týn) とは、壁で囲われた場所の意味。(The word týn means an enclosure, a fenced area, the former word otýniti used to mean to enclose.)

教会の正式名は、濠と壁に囲まれ、街から隔離されていた、「ウンゲルト」(Ungelt) といわれた外国商人の居留地が、教会の背後にあったことに由来しています。

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商人は安全な場所でないと安心して商売できず、王様に、壁で囲まれた保護区域を作って守ってもらうかわりに、その入口に入るとき、手数料を支払う仕組みになっていました。

この手数料は、関税として強制的に徴収されるようになり、14世紀のはじめには、この関税は、古いドイツ語の言葉で 「ウンゲルト」と呼ばれるようになり、いつしか、この外国商人の居留地自体が 「ウンゲルト」(Ungelt) と呼ばれるようになったのでした。

★Ungelt - Týn Yard (Ungelt - Týnský Dvůr)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=48754(チェコ語)
http://cs.wikipedia.org/wiki/Pal%C3%A1c_Granovsk%C3%BDch_z_Granova
★以前書いたエントリー記事:「プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」

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この二日後、先ほどのウンゲルトにあるボタニクスで、日本未入荷のシアバターのナイトフェイスクリーム、ローズ・フェイス&ボディーミルク、石鹸などを購入
★ボタニクス "Botanicus" http://www.botanicus.cz/ ★日本支店

ウンゲルトは、建物に囲まれ、いい雰囲気でしたので、翌日の夜は、「インディアン・ジュエル (Indian Jewel)」 http://www.indianjewel.cz/csで、ビール&美味しいタンドール・チキンの夕食を。

そして、二日後の夜、「The Dubliner Irish Pub」 http://www.aulddubliner.cz/ で夕食をとりました。 これは後ほど、ご紹介致します。

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ホテル・パジージュ (Hotel Paříž Praha)
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私たちが宿泊したホテル、 「グランド・ホテル・ボヘミア」(Grand Hotel Bohemia, Prague)
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ようやく、プラハ一日目が終了。

ウィーンから飛行機でプラハに到着したのが、2013/8/14(水) 10:55 AM。
夜の散歩からホテルに戻ったのが、11:00 PMなので、プラハ丸一日分。

このチェコ一日分の記事の総数 36 個!!! 長く充実した一日でした

★記事インデックスは「こちら
プラハ個人旅行 まとめ記事

翌日は、プラハ城などへ。 つづきます。「プラハ 路面電車でプラハ城へ ★路線図&時刻表

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プラハ 夜の散歩 旧市街の路地、旧市街広場

マラー・ストラナ広場の夜景」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

★プラハ旧市街 散策マップ04 抜け道編
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★「散策マップ01」 ★「散策マップ02」 ★「プラハ建築散歩 散策マップ 03
★以前書いたエントリー記事:「プラハの抜け道 パッサージュを散歩する

クレメンティヌム (Klementinum, Clementinum) を左に見ながら、セミナールスカー (Seminářská) の雰囲気ある路地を歩く。
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上の写真右上は、マリアーンスケー広場 (Mariánské náměstí) の、「プラハ新市庁舎」 (Nová radnice na Mariánském náměstí, Praha, Prague City Hall)
ノヴァック館と同様、プラハ市民会館の共同設計者の一人としても有名な、オスヴァルド・ポリーフカ (Osvald Polívka, 1859–1931)の設計に基づき、1909年から1911年にかけて建てられました。
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x;jsessionid=3B18D747C1926228CDFB540EDAA64556?id=44801
http://www.praha.eu/jnp/en/index.html
★以前書いたエントリー記事:「プラハ建築散歩 散策マップ#3 ヴォディチコヴァ通り (Vodičkova) 「ノヴァック館」、「ミシャーク館」など、カフカの転職

上の写真右下は、クレメンティヌムの建物。

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市庁舎脇のリンハルツカー通りから、市庁舎裏へ。 ノスタルジックな雰囲気が漂うアーケード。 人通りが少なく、ちょっとドキドキ。足早に通り過ぎる(写真左上)。
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上の写真、下の二枚は、アーケードを通り過ぎた先にある、フランツ・カフカ広場(náměstí Franze Kafky)の、「カフカの生家」と「聖ミクラーシュ教会」。

右上は、「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí) の旧市庁舎の塔。

暖かみのある色合いの照明。 ライトアップのトーンが統一されているところが素敵です

「旧市街広場」、「ティーン教会」(Kostel Matky Boží před Týnem, Church of Our Lady before Týn (Church of the Virgin Mary before Týn)) 側。 美しいライトアップ ※画像クリック。拡大してご覧下さい
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★昼間のティーン教会については、「プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」

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ティーン教会の裏をまわって、「ウンゲルト」(Ungelt) へ
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つづきます。「プラハ 夜の散歩 ウンゲルト グラノフスキー宮殿

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マラー・ストラナ広場の夜景

プラハ城とカレル橋の夜景」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

カレル橋から、さらに、マラー・ストラナ (小地区) Malá Strana, Lesser Town of Prague)にある、マラー・ストラナ広場 Malostranské náměstí まで歩きました。
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夜10時30分頃だったけれども、結構人通りあり。

マラー・ストラナの 「聖ミクラーシュ教会」 Sv. Mikuláš na Malé Straně, St. Nicholas Church (Malá Strana)
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マラー・ストラナ広場 Malostranské náměstí,
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夜も更けてきたので、ここでホテルへと引き返しました。

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カレル橋から、旧市街側を見たところ。
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カレル橋の旧市街橋塔をくぐったところ。 マラー・ストラナ側より、圧倒的に人が多い。
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カルロヴァ通り(Karlova)に行く手前。 写真左は、クレメンティヌム側。 写真右は、路面電車が出てきたところ。
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夜のプラハを、ブラブラ一人歩くも、また楽しかった
もっとも、まわりはカップル、グループ、家族連れが多くて、ちょっと淋しい気持ちにもなる。

プラハの夜の路地散歩。 つづきます。「プラハ 夜の散歩 旧市街の路地、旧市街広場

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プラハ城とカレル橋の夜景 

チェコの伝統的な菓子パン、トゥルドロ (トゥルデルニーク) を食べる」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事、★「散策マップ#4 抜け道編

カルロヴァ通り(Karlova)から、カレル橋の旧市街橋塔
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「カレル橋」(Karlův most, Charles Bridge) 観光客が多いとはいえ、幻想的な風景。
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「プラハ城」 (Pražský hrad, Prague Castle)
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ヴルタヴァ川 (モルダウ川)とプラハ城。 夜景って、写真を撮るのが難しい
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しっとり落ち着いた風情のヴルタヴァ川。 下流側
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「ルドルフィヌム」 Rudolfinum をズームで撮影。 ライトアップされた建物の姿も美しい
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ヴルタヴァ川沿い、上流側。 国民劇場 (National Theatre) などのライトアップ
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旧市街橋塔と、月夜、そして、ペトシーン・タワー(Petřínské sady)
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マラー・ストラナ橋塔(Malostranské mostecké věže, Malá Strana Bridge Towers or Lesser Town Bridge Towers)
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この橋塔を超え、マラー・ストラナ(小地区 Malá Strana, Lesser Town of Prague) へ。

つづきます。「マラー・ストラナ広場の夜景

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チェコの伝統的な菓子パン、トゥルドロ (トゥルデルニーク) を食べる

プラハの抜け道 パッサージュを散歩する 地図あり」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事、★「散策マップ#4 抜け道編

カルロヴァ通り(Karlova)にある、ベーカリー 「クルスタ」"Řemeslná pekárna Krusta" (Craft Bakery Krusta)
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ほの甘~い香りに誘われ、たくさんの人が並んでいる列に、私もちょっとワクワクしながら並びました。

棒に生地をぐるぐる巻きつけ、直火で焼いていた、チェコの伝統的な菓子パン、
「トゥルドロ」 (Trdlo) 、別名、「 トゥルデルニーク」(Trdelník)。 ジュースも購入

外側がサクッとした、素朴なパンで、やっと、お腹も収まりました
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チェコの税率 15% ヨーロッパの税率は高いなぁ・・・。
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★ベーカリー 「クルスタ」 "Řemeslná pekárna Krusta" (Craft Krusta Bakery)
http://www.yelp.co.jp/biz/%C5%99emesln%C3%A1-pek%C3%A1rna-krusta-prague
Staročeské Trdlo: https://www.facebook.com/pages/Staro%C4%8Desk%C3%A9-Trdlo/164353826948958?sk=timeline

チェコ版、気軽なB級グルメ。 ぶらぶら食べ歩きが楽しかったです

つづきます。「プラハ城とカレル橋の夜景

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プラハの抜け道 パッサージュを散歩する 地図あり

プラハ 夜の散歩 市民会館、旧市街、旧市庁舎のモザイク画」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

★プラハ旧市街 散策マップ04 抜け道編
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★「散策マップ01」 ★「散策マップ02」 ★「プラハ建築散歩 散策マップ 03

プラハの抜け道 (パッサージュ Pasáž, passage)。迷路のような路地散策を満喫しました

「小広場」(マレ・ナーメスチー、Malé náměstí, Small Square) から、リヒトゥルヴ館 (Richtrův dům)、ミハルスカー通り (Michalská) への抜け道。Art Passage
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★Richtrův dům na Malém náměstí
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/cs/objects/detail.x?id=59223

素敵な中庭 この近くに、Prague Special Tours の Ticket Offce
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抜け道を出ると、Restaurace V Cípu のあるミハルスカー通り (Michalská) 。
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さらに、メラントリホヴァ通り (Melantrichova) への抜け道 (パッサージュ Pasáž)
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抜け道を出た中庭にあるレストランでは、クラシックの生演奏 演奏も雰囲気も素敵で、思わず足を止めてしました
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抜け道を出て、メラントリホヴァ通り (Melantrichova) へ
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土産物店などを見ながら、ハヴェルスカー通り (Havelská) 、ハヴェル広場(ガル広場, Havel (Gall) Quarter)へ。
写真の教会の反対側は、ハヴェル市場。

聖ハヴェル教会(聖ガル教会、ザンクト・ガレン教会) (Sv. Havel - Kostel, Church of St. Gall)
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プラハの聖ハヴェル教会(聖ガル教会)は、1232年、ボヘミア王ヴァーツラフ1世 (Václav I., Wenceslas I, 1230–1253) によって創設された、プラハにおける4つの主たる教会(main church)の一つです。現在は、ローマ・カトリック教会に属する教区教会。

カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)は、スイスのザンクト・ガレン教会にあった聖ガル(St Gall) の頭蓋骨といわれる聖遺物を教会に寄進。

この頃(14世紀中頃)、教会は、ロマネスク様式から、3つの側廊のある盛期ゴシック様式のバシリカへと改築され、のちに、教会がバロック様式へと改装された後でも、その姿をとどめています。

そして、のちに列聖されたヤン・ネポムツキー (Jan Nepomucký, St. John of Nepomuk, 1345 – 1393) は、1380年から1390年、牧師として従事していました

★Church of St. Gall (Sv. Havel - Kostel)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=43270チェコ語
http://www.praguecityline.com/prague-monuments/church-of-st-gall

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先ほどのメラントリホヴァ通り (Melantrichova) にある抜け道へ。写真左は、抜け道への入口
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元来た抜け道を通って、再び、「小広場」(マレ・ナーメスチー、Malé náměstí, Small Square) (下の写真の左上)。

カルロヴァ通り(Karlova)に入ったすぐの、中庭への抜け道(下の写真の左下)。
その中から、 カルロヴァ通り(Karlova)、「小広場」(マレ・ナーメスチー、Malé náměstí)方面を見てみると、さっき通ったばかりの通りが、角度が違うせいなのか、ちょっと違って見えました。(下の写真、右側)
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プラハの抜け道 パッサージュの散策、とても楽しかったです

カルロヴァ通り(Karlova)を、「カレル橋」(Karlův most, Charles Bridge) の方向へ。

つづきます。「チェコの伝統的な菓子パン、トゥルドロ (トゥルデルニーク) を食べる

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プラハ 夜の散歩 市民会館、旧市街、旧市庁舎のモザイク画

プラハ カレル橋 聖ヤン・ネポムツキーの伝説」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

いったんホテルに戻ると、夫はそのまま爆睡。 私は、お腹も減ってきたことだし、一人ぶらぶら、夜の散歩に出かけました。 ★夜の散歩ルートは、昼間とほぼ同じ→★「散策マップ#4 抜け道編」、★プラハ旧市街 散策マップ01

その夜のプラハの素晴らしさといったら !!! ライトアップも美しいし、旧市街の路地の雰囲気も素敵すぎる

「市民会館」 (Obecní dům) と、「火薬塔」(Prašná brána) PM 9:30
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火薬塔を旧市街側から見る
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「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí) 旧市庁舎側
※写真は Windows Live フォトギャラリーを使用し、パノラマ写真として合成。 拡大してご覧下さい
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夜9時半過ぎですが、人がたくさん。 一人でぶらぶら歩いていても、危険な感じはしませんでした

「旧市街広場」 (Staroměstské náměstí) ティーン教会側
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「百塔の街」といわれるプラハですが、 ライトアップで、ティーン教会の尖塔の美しさが、さらに際立ち、とても素敵でした

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「プラハ旧市庁舎」 (Staroměstská radnice, Old Town Hall) と 「ティーン教会」(Tynska skola,Týn School)
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★昼の散歩のエントリー記事は、「プラハ 旧市街広場 06 「ティーン教会」」、「プラハ 旧市庁舎と天文時計

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旧市庁舎の扉の中から、うっすら明かりが漏れていて、好奇心を抑えきれずに覗いてみると、、

なんて美しい、細緻なモザイク画!!!
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たまたま居合わせた数人、そのあまりの美しさに、声も出ず・・・。
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ほの暗い明かりの下、壁と天井を埋め尽くすモザイク。
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旧市庁舎の中、まさか、こんな至宝が隠されていたとは・・・
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まさに、至福のひとときでした

これもまた、カレル橋で手を触れた、ヤン・ネポムツキーさまの御利益でしょうか?

旧市庁舎内のモザイク画は、ガイドブックでは、ことさら紹介されていませんでしたが、
これこそ MUST SEE !! 必見ですっ

改めて、旧市庁舎のガイドツアーで見学しようと思ったのは言うまでもなく、歴史あるホールアンダーグラウンド・ツアーとともに、2日後の夕方、見学しました。
http://www.staromestskaradnicepraha.cz/

プラハ、夜の散歩、つづきます。「プラハの抜け道 パッサージュを散歩する 地図あり

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プラハ カレル橋 聖ヤン・ネポムツキーの伝説

プラハ 旧市街橋塔 カレル4世像」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

「カレル橋」(Karlův most, Charles Bridge)
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「カレル橋」は、プラハ最古の橋。 カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の命を受けた建築家、彫刻家のペトル・パルレーシュ(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330または1333年から1399年)によって、1357年に着工
1402年、カレル4世の息子のヴァーツラフ4世 (Václav IV. ドイツ名:ヴェンツェル、神聖ローマ皇帝在位:1376 - 1400年、ボヘミア国王在位:1378 - 1419年) の治世のときに完成しました。

前述の 「旧市街橋塔」から、マラー・ストラナ橋塔まで、全長 約 515m、幅 9.5m の石橋。

カレル橋の上から見た、「プラハ城」 Pražský hrad, Prague Castle
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橋の上では、何か国もの観光客の言葉が飛び交い、土産物、似顔絵描きのコーナーが並んでいました。 楽器を演奏している人々もいて、とても賑やか
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ヴルタヴァ川 (Vltava ドイツ語名、モルダウ川 Moldau) 下流。 先に見えるは、「マーネス橋」 (Mánesův most)。
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チェコの偉大な作曲家、スメタナ(Bedřich Smetana, 1824 - 1884)の交響詩「わが祖国」の中でも、特に有名な 「モルダウ」(元題、チェコ語の 「ヴルタヴァ」だけれど、日本ではドイツ語 「モルダウ」の名前で知られている)。この曲の主題となっている、スメタナの故郷の大河です。 曲は聴いたことがあるけれど、実際に見ることができて凄く嬉しい

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ところで、上の写真で、人々が触っているのは、「聖ヤン・ネポムツキー」 (Jan Nepomucký, St. John of Nepomuk, 1345 – 1393) が川の中に投げ込まれ、殉教したとされる場所。
伝説によれば、左手で、願い事をしながら十字架と5つの星に触れると、願いが叶う といわれています。(下の写真の左上)

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欄干の左右には、30体の像(wiki)。1683年から1928にかけて作られ、そのほとんどは、1706年から1714年、ハプスブルク家のヨーゼフ1世、その弟で、マリア・テレジアの父でもあるカール6世がボヘミア王のときの作品。現在は、すべてレプリカで、オリジナルは、ラピダリウム美術館(Lapidarium museum in Holešovice)に収蔵されています。

中でも有名なのが、「聖ヤン・ネポムツキー像」 (写真右)。
足下のレリーフに触ると、幸せが訪れる、といわれているので、ピッカピカに輝いていました(写真左下)。
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置かれた手は、私の手。 何か御利益があるといいなぁ~ と思っていました。
その翌日、プラハ城の中にあるロブコヴィッツ宮殿で、毎日お昼の13:00から始まるクラシック音楽のコンサートを知り、ちょうど時間も良いタイミングで、スメタナ 「モルダウ」など、素晴らしい演奏のコンサートを聴けたのは、この御利益のおかげかも !?

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ところで、ヤン・ネポムツキー (ネポムクの聖ヨハネ Jan Nepomucký, John of Nepomuk, c.1345 – 1393) は、プラハ大司教の司教総代理。

伝説では、ヤン・ネポムツキーが、王妃の不義に関わる、告解の秘密を守り通したがために、国王ヴァーツラフ4世から拷問を受け、カレル橋から川に投げ込まれ、その際、5つの星が浮かび上がったといわれています。

そして、1719年、ヤン・ネポムツキーの墓を調べたところ、赤く新鮮な 「聖舌」が出てきたとして、1729年には、ローマ教皇ベネディクトゥス13世によって列聖されました。

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しかしながら、ボヘミア国王ヴァーツラフ4世は、プラハ大司教イェンシュテインと対立。 ヴァーツラフ4世が、大司教の企みを聞きだそうと、ヤン・ネポムスキーを含む大司教の役人を拷問しようとしたところ、 ヤン・ネポムスキーが意識を失い、そのまま死んでしまったのが、事件の真相。

ボヘミアにおけるローマ・カトリックによる反宗教改革の一環として、同じ名前を持つヤン・フスによる教会改革の記憶を消し去るために、ヤン・ネポムスキーを聖人みなして、崇拝の対象としたのでは?、ともいわれています。

1961年、ローマ教皇庁は、ヤン・ネポムスキーが告解の秘密を守った、という物語は事実に反することを正式に認め、1973年、かつて 「聖舌」とされたものは、脳の残りと断定されました。

カール シュヴァルツェンブルク公ほか(著)、稲野強(監訳)、「プラハ城―歴史と遺産」(恒文社、1995年) 236~241頁参照。

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ところで、聖ヤン・ネポムツキー像は、橋の上の最古の彫刻(1683年)。 ちょうど、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(Leopold I., 神聖ローマ皇帝在位:1658 - 1705, ボヘミア王在位:1656 –1705)の治世の頃。

ウィーンの彫刻家マティアス・ラウフミューラー (Matthias Rauchmüller) の石膏模型に基づき、彫刻家ヤン・ブロコフ(Jan Brokoff)が木製模型を制作。それを基に、ブロンズ像が制作されました。
ブロコフは、「壁の中の聖マルティン教会」に記念のレリーフがありましたね
 
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写真左は、棕櫚の枝を持った聖ヤン・ネポムツキーの像。 写真右は、カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の時代からすでにあった、キリストの 「磔刑、聖十字架」(Kalvárie, sv. Kříž)。
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カレル橋が完成した当時、橋の欄干には、この十字架しかなく、十字架の両側にある像は、1861年、Emanuel Max 作。

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数々の洪水にみまわれてきたカレル橋と彫像。 旅行前、2013年5月から6月にかけての欧州中部の洪水で、大変な被害が出ており、とても心配していました。★http://www.bbc.com/news/world-europe-22835154
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ヴルタヴァ川での、小さなパドルボート(ペダルボート Paddle Boats)などでの船遊びも楽しそう !!! 憧れるなぁ~
そういえば、ストラホフ修道院のビアホールで相席していた、スペインから来たお兄さんも、ヴルタヴァ川のボートが良かったなぁ~ なんて、楽しそうにお話してくれました!!
Paddle Boats on the Vltava River Novotného lávka, http://www.lavka.cz 写真 - Fotogalerie zahrady カレル橋の旧市街橋塔の南、すぐそば (Google Map "Novotného lávka 201/1, Praha, チェコ共和国" で検索可能) 
★体験者 Stef さんの website:http://foodandphotosrtw.com/2014/05/01/be-active-in-prague/
・・・のんびりできるし、とても楽しそう 当時は、200 CZK/1hour
Klub Lávka & Paddle Boats の記事 ・・・時間がなかったら、この Walking tour も良いかも
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ヴルタヴァ川、上流側。 チェコ軍団橋(Most Legií, The Bridge of the Legions)と、射撃島(Střelecký ostrov, Střelecký Island)をバックに記念撮影
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★カレル橋
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/55-charles-bridge.shtmlチェコ語
http://cs.wikipedia.org/wiki/Karl%C5%AFv_most

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マラー・ストラナ橋塔(Malostranské mostecké věže, Malá Strana Bridge Towers or Lesser Town Bridge Towers)
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マラー・ストラナ橋塔は、マラー・ストラナ(小地区)Malá Strana, Lesser Town につながる橋。

低い塔は、カレル橋が架けられる以前、1342年の洪水で流されたユディット橋 (Judith Bridge) の一部となっており、かつては牢獄として使われていました。 その塔が資料として登場するのは、1249年以前のこと。従来のロマネスク様式から、現在のルネサンス様式となったのは、1591年。

そして、高い塔が建てられたのは、1464年。 このゴシック様式の建築は、ペトル・パルレーシュ(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330または1333年から1399年)の「旧市街橋塔」のスタイルを取り入れたもの。

この二つの塔をつなぐアーチ型の石の門は、15世紀初頭に建てられました。

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これらの橋も、30年戦争 (1618 年から1648年) の終盤、プラハ城を占拠していたスウェーデンの砲撃により、大きな被害を受けました。

プラハ市民は、カレル橋にてスウェーデン軍を迎え撃ち、ついに撃退

このように、激動の歴史を経てきたカレル橋。 歴史を知ると、ますます興味が深まります

★マラー・ストラナ橋塔(Malostranské mostecké věže, Malá Strana Bridge Towers)
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/56-mala-strana-bridge-towers-.shtml

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だいぶ歩いて疲れたので、ここからホテルに戻りました。

ホテルに戻って、一休みしてから、夜の散歩へ。 ライトアップされたプラハの街も、とても美しくて感激でした

そういえば、プラハに着いて、まだ一日、終わっていなかったりする・・・

「プラハ愛」が高じて、「プラハおたく」 になってる私 (笑)。 ついつい長くなってしまいましたが、どうかお許し下さいませ。

つづきます。「プラハ 夜の散歩 市民会館、旧市街、旧市庁舎のモザイク画

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プラハ 旧市街橋塔 カレル4世像

プラハ ケプラー博物館、ケプラーによる天文学の発展と、ルドルフ2世」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

カレル橋の 「旧市街橋塔」。右側には、神聖ローマ皇帝 「カレル4世像」。写真真ん中、遠くに見えているのは、「プラハ城」。
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この「カレル4世像」は、1848年、カレル4世が1348年に設立したプラハ・カレル大学 (Charles University in Prague) 創立500周年を記念して建てられたもの。Ernst Hähnel による作品です。

カレル4世は、カレル橋と橋塔、聖ヴィート大聖堂を建設し、中世チェコの最盛期を築きました。
※Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年。

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カレル橋の 「旧市街橋塔」 Staroměstská mostecká věž, Old Town Bridge Tower
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プラハ最古の 「カレル橋」(Karlův most, Charles Bridge) は、カレル4世の命を受けた建築家、彫刻家のペトル・パルレーシュ(Petr Parléř, 英語名、ピーター・パーラー, Peter Parler, 1330または1333年から1399年)によって、1357年に着工
1402年、カレル4世の息子のヴァーツラフ4世 (Václav IV. ドイツ名:ヴェンツェル、神聖ローマ皇帝在位:1376 - 1400年、ボヘミア国王在位:1378 - 1419年) の治世に完成しました。

そして、 この「旧市街橋塔」は、ペトル・パルレーシュによって、1380年に完成

この47mの橋塔の上には、有料で上れるようになっています。 写真にも、人の姿が見えています http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/57-old-town-bridge-tower-.shtml

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このゴシック様式の塔は、元々、旧市街を守る要塞として建設され、上の写真右、橋側にある塔の西側の壁は、30年戦争 (1618 年から1648年) の終わりに、スウェーデンの砲撃によって被害を受けました。

上の写真左、塔の東側の壁面には、左に神聖ローマ帝国皇帝カレル4世、右にカレル4世の息子のヴァーツラフ4世、その中心には、聖ヴィートの像。
※ヴァーツラフ4世は、聖ヴィート大聖堂を創設したヴァーツラフ1世(Václav I, 907 - 935)、のちにボヘミアの守護聖人となった、聖ヴァーツラフとは別人。 本文は、チェコの http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/ 情報を参照。日本のガイドブックの説明とは異なっています。

その上には、聖ジギスムント (St. Sigismund)、そして、ボヘミアの守護聖人、聖アダルベルト (St. Adalbert of Prague, Sv Vojtěch) の像。

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なお、ヴァーツラフ1世は、ドイツのザクセン王朝のハインリヒから、ザクセンの聖人として崇拝されていた聖ヴィートの遺骨(「聖ヴィートの腕」)を入手。
薩摩秀登著「プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)」(現代書館、1998年)21頁参照。

そして、カレル4世は、6世紀のブルゴーニュ王、聖ジギスムント (St. Sigismund) の頭蓋骨など、多くの聖遺物を手に入れたといわれています。
カール シュヴァルツェンブルク公ほか(著)、稲野強(監訳)、「プラハ城―歴史と遺産」(恒文社、1995年)114頁参照。

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ところで、30年戦争 「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) のあとの、1621年6月21日、プロテスタントの反乱の首謀者、上級貴族3名、下級貴族7名、市民17名、合計27名が処刑されましが、そのうち 12人の首が、見せしめとしてカレル橋の塔に吊され、10年もの間、そのまま放置されていました・・・。

「さらし首」は、1631年、プロテスタントのザクセン軍が一時プラハを支配したとき、ようやく下ろされティーン教会に埋葬されたのでした。

当時の図版は、「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)」(ジェームズ・R. ヴォールケル (著)、林 大 (翻訳)、大月書店, 2010)149頁に掲載。

まさか、この橋塔の上、10年間、さらし首があったとは。。
想像すると、あまりに怖すぎ、恐ろしすぎです・・・

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ゴシック様式、交差ヴォールトと天井の壁画
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★Old Town Bridge Tower
http://www.praguewelcome.cz/en/visit/monuments/top-monuments/57-old-town-bridge-tower-.shtmlチェコ語
http://www.praguecityline.cz/prazske-pamatky/staromestska-mostecka-vez-2

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ところで、橋塔の手前には、建物の中を通る道路があって、路面電車も走っているのが、なんともユニーク!
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橋塔側から、今まで歩いてきた 「カルロヴァ通り」 (Karlově ulici) を見る。 正面はクレメンティヌムの一部となっている、聖サルヴァトール教会 (Kostel Nejsvětějšího Salvátora)。左側は、聖フランティスク教会。
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http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=43666チェコ語

観光客がいっぱいの 「カレル橋」へ。

つづきます。「プラハ カレル橋 聖ヤン・ネポムツキーの伝説

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プラハ ケプラー博物館、ケプラーによる天文学の発展と、ルドルフ2世

プラハ路地散歩 フソヴァ通り、カルロヴァ通り クラム・ガラス宮殿、カフカの研修生時代」のつづき。 ★プラハ個人旅行 まとめ記事

さて、ようやく 「カレル橋」(Karlův most, Charles Bridge)が見えてきました。

このプラハ旧市街、カレル橋手前の 「カルロヴァ通り」 (Karlově ulici) 沿い、 「フランス王冠の家」 The house "At the French Crown", U Francouzské koruny に、 ヨハネス・ケプラーが、1607年から1612年にかけて住んでいました。(写真左側から2番目、ベージュの壁の建物)

現在、「ケプラー博物館」 "Kepler Museum" (KEPLEROVO MUZEUM V PRAZE) 。http://www.keplerovomuzeum.cz/
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ヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler, 1571-1630) は、ドイツの数学者、天文学者、占星術師。

地動説を唱えたコペルニクス、ガリレオ・ガリレイとともに、ルネサンス期における、最も偉大な天文学者の一人とされています。

私がケプラーに興味を持ったのは、たまたま近所の日本橋図書館で、ジェームズ・R. ヴォールケル (著)、林 大 (翻訳) 「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)」(大月書店, 2010) に出会ったから。

右側の英語のペーパーバック版、Johannes Kepler and the New Astronomy, by James R. Voelkel の装丁と比べると、圧倒的に親しみやすくて素敵な装画 
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この小笠原ありさんの装画に惹かれて、パラパラ本を読んでいくうち、どっぷり、ケプラーの伝記にハマってしまいました。

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1583年に王宮をプラハ城に移した、ルドルフ2世 (Rudolf II)」(1552-1612, 神聖ローマ皇帝在位 1576-1612)。
この芸術、科学、錬金術のパトロンとして君臨した皇帝の下、ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630) は、1601年、帝国数学官に任命されます。

ルドルフ2世の庇護の下、前任者だったデンマーク王国出身の偉大な天文学者、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)による正確な天体観測結果を引き継いだケプラーは、惑星の運行の法則に関する 「ケプラーの法則」(Kepler's laws of planetary motion) を発見。

ケプラーの法則は、(1) 惑星は、太陽を焦点とする楕円軌道を描いて運行する、(2) この楕円軌道において、惑星と太陽とを結ぶ線分が一定時間に描く図形の面積は一定である、(3) 太陽系の惑星の周期の2乗と、太陽からの距離の3乗の比は同じ、という3つの法則。(詳しくは、前掲書などを参照して下さい)
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この発見は、のちにニュートンによる万有引力の発見につながりました。

そして、「ルドルフ表」(the Rudolphine Tables)-どの時代の惑星の位置も、表そのものによって計算できる「天体運行表」-を作成。

そのほか、17世紀の光学理論の土台となった、「天文学の光学的部分」などを発表。

これは、後に、ケプラー望遠鏡の開発へと繋がっていきます。

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このように、帝国数学官だったケプラーは、ルドルフ2世、その後継者であるマティアス、そしてフェルディナンド2世の庇護の下、天文学上、めざましい功績を上げました。

しかし、それ以前には、ケプラーは、そのプロテスタントの信仰ゆえにカトリックからの迫害を受け、プラハ移住以前には、教職に就いていたグラーツの地から、追放される憂き目にあっていたのです。

そして、パトロンだったルドルフ2世が亡くなった後、リンツに移ってプロテスタントの学校で数学の教師となるも、1618年の「第二次プラハ窓外投擲事件」に端を発した、「30年戦争」が勃発 (1618年から1648年)。

「白山(ビーラ・ホラ)の戦い」 (1620年, Battle of White Mountain) のあとの、1621年6月21日には、プロテスタントの反乱の首謀者、ケプラーの旧友も処刑されてしまいます。

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そんな中、ケプラーの母親が「魔女裁判」にかけられ、告発はどうにか退けられたものの、拷問のおどしによる尋問を受けたためか、解放からわずか半年後に死亡、という悲運にみまわれてしまうのです。

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その後、リンツにおいて、カトリックによる反宗教改革の嵐が吹き荒れ、反乱軍による騒乱ののち、家族とともにレーゲンスブルクへ。 そこに家族をに残して、「ルドルフ表」の印刷のため、ウルムへ。

フェルディナント2世によって、帝国数学官への任命が承認されるも、カトリックへの改宗が条件とされたため、ヴァレンシュタンイン将軍お抱えの数学者に転向。

しかし、移住したザーガンにおいても、カトリックによる反宗教改革の嵐が吹き荒れます。
しかも、パトロンとなったヴァレンシュタンイン将軍は辞職させられ、報酬は未払いのまま・・・。

そこで、選帝侯の集まりが行われていたレーゲンスブルクに赴く、ケプラー。
まさかその途上で、病に冒され、この世を去ることになろうとは・・・。

★The Kepler Telescope Channel
Johannes Kepler's law of Planetary Motion - Greatest moments in Science

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宗教による迫害、戦争と、苦難の連続だったケプラーの人生。 その歴史的背景を抜きにして、ケプラーの人生は語れません。

本書では、その背景となった歴史が丁寧に語られ、激動の人生を生きたケプラーの姿が、鮮やかに描き出されています。

また、ルドルフ2世というと、とかく占星術や錬金術に没頭した面がクローズアップされがちですが、ケプラーが重要な天文学上の発見にするにあたって、好ましい環境を提供したことに、もっと光をあてるべきでは?

ケプラーは、彼が仕えたルドルフ2世やヴァレンシュタンイン将軍のため、天文的知識と数学的知識を駆使して占星術も行いましたが、前述のようなケプラーの法則の発見などに比べれば、ケプラーにとっては、それがメインではないと思われるのです。

http://johanneskepler.info/ Johannes Kepler Info
・・・ケプラー・ファン必見かもな 「ヨハネス・ケプラー・インフォメーション」のサイト 
 
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それにつけても、まさか、数学、物理にそれほど詳しくはない、専業主婦の私が、これほど天文学者の伝記本にハマってしまうとは・・・。

実際、書店や図書館などで、実際、本を手にとってみるって大切だなぁ、と思いました。

★KEPLER MUSEUM (KEPLEROVO MUZEUM V PRAZE)
http://www.praguewelcome.cz/srv/www/en/objects/detail.x?id=73626チェコ語
★KEPLER JOHANNES (JAN)
http://www.praguewelcome.cz/cs/pamatky/o-praze/slavne-osobnosti/veda/59-kepler-johannes-jan.shtml(チェコ語)
http://www.kralovskacesta.cz/en/tour/objects/at-the-french-crown.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Kepler
★ジェームズ・R. ヴォールケル (著)、林 大 (翻訳) 「ヨハネス・ケプラー―天文学の新たなる地平へ (オックスフォード科学の肖像)」(大月書店, 2010)参照

つづきます。「プラハ 旧市街橋塔 カレル4世像

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