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2017年2月の5件の記事

ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半

ミュシャ スラブ叙事詩を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

「スラブ叙事詩」(スラブ・エピック Slovanská epope, The Slav Epic)は、アルフォンス・ミュシャ (ムハ Alfons Maria Mucha, 1860 - 1939) が、1912年から1926年にかけて描いた、全20作の連作画。

プラハ国立美術館(Národní galerie v Praze, the National Gallery in Prague http://www.ngprague.cz/en/)では、スラブ叙事詩のうち7作品は 610×810cm というサイズの大きさ、スラブ民族の歴史を伝えようとするミュシャの思いの強さが伝わって来て、ただただ圧倒されました。
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この超大作「スラヴ叙事詩」は、2017年3月8日(水曜日)から、6月5日(月曜日)まで (火曜休館)、六本木の国立新美術館の「ミュシャ展」で、チェコ国外の世界初公開とのこと。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
http://www.mucha2017.jp/

プラハ国立美術館、ヴェレトゥルジュニー宮殿での特別展は、人が少なく、混雑とは無縁で、ゆっくり見られましたが、日本における特別展では、充実した日本語でのオーディオガイドやカタログが期待できそうなので、また見に行くのが楽しみですheart04

ミュシャの生涯とスラブ叙事詩の映像も流れていました。

これらの作品を見て、チェコの歴史をもっと知りたくなり、いろいろ本を読むきっかけとなりました。
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01. The Slavs in Their Original Homeland (1912) 元の祖国のスラヴ民族
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古代のスラブでは、数多くの戦いが繰り広げられました。

画面下には、スラヴ民族の祖先としてのアダムとイブが、無防備な難民としてうずくまっています。 星のきらめく暗い夜空をバックに、異教(キリスト教ではない、スラヴ独自の宗教)の司祭が神秘的に浮かび上がり、司祭は、戦争のアレゴリーである男性と、平和のアレゴリーである女性を左右に従えています。

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02. The Celebration of Svantovit in Rügen (1912) リューゲン島のスヴァントヴィート祭
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バルト海沿岸のリューゲン島のアルコナ(Arkona)には、かつて、キリスト教への改宗を拒んできた、スラヴ異教徒の砦があり、アルコナ岬では、毎年収穫祭が行われていました。 しかし、1168年、キリスト教徒のデンマーク王ヴァルデマー1世によって征服され、スヴァントヴィートの寺院は破壊されてしまいます。

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03. Introduction of the Slavic Liturgy (1912) スラヴ式典礼の導入
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モラヴィア王ロスチスラフ (Rastislav of Moravia) は、キリスト教国として宗教的にも自立すべく、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に支援を仰ぎ、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟コンスタンティノス(キリル Cyril)とメトディオス Methodius の派遣を受けました。弟コンスタンティノス(キリル)は、スラヴ語を書き表す文字を考案し、キリスト教の福音書など、多くのキリスト教関係の文献をスラヴ語に翻訳。兄弟は、モラヴィアでキリスト教の布教活動を行い、弟子を育成しました。

その後、兄弟はローマに赴き、教皇ハドリアヌス2世 (Pope Adrian II) から歓待を受け、ミサなどの典礼用語としてスラヴ語を用いてよいとの承認を獲得。
しかし、ローマ滞在中の869年、コンスタンティノスは病死。その死の直前に修道士となり、キュリロス(キリル)という名前を得ます。兄メトディオスは、教皇からパンノニアとモラヴィアを含むシルミウム大司教に任命され、870年、再びモラヴィアに赴きました。

しかし、それ以前には、現在のドイツにあたる東フランク王国、パッサウ司教の監督下に置かれていたモラヴィア。 東フランク王国の聖職者らは、典礼用語としては、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語を用いるべきで、それ以外の言語を用いるべきではないと主張していたのです。
そのため、メトディオスは東フランク側に捕らえられ、873年、教皇ヨハネス8世によって釈放されるまで獄中生活を送るはめに・・・。

【※聖書は、旧約聖書と新訳聖書から成り、旧約聖書は、もともと古代イスラエル民族に伝わる口承文学。古くは、ユダヤ教の聖典として確立され、キリスト教、イスラム教の信仰の拠りどころともされています。
旧約聖書のヘブライ語聖書は、前3世紀にエジプトのプトレマイオス2世の命によってギリシア語に翻訳。そして、カトリック教会の正典のラテン語訳聖書(ウルガータ聖書)は、382年から405年にかけて、ヒエロニムスによって、ヘブライ語ギリシア語の原テキストからラテン語に翻訳されました。
これに対して、新約聖書は、すべてギリシャ語で書かれています(季刊誌「考える人」2010年春号 特集「はじめて読む聖書」52~53頁 山形孝夫「聖書ってどんな本?」、田川建三ほか「はじめて読む聖書」新潮選書】

メトディオスがやっと解放された後、大モラヴィア (Great Moravia) を統治していたのは、スヴァトプルク (Svatopluk I of Moravia)。スヴァトプルクは、教皇の裁定を仰ぐために、教皇のいるローマへとメトディオスを派遣します。

880年、ローマ教皇ヨハネス8世 (Pope John VIII) は、スラヴ語での典礼に正当性があることを承認しました。
もっとも、まずはラテン語で、その後にスラブ語の翻訳で典礼を行うという条件付き。このように、双方の融和を図る形でスラヴ式典礼が導入されたでした。

以上、【※】以外、薩摩秀登著「物語 チェコの歴史 森と高原と古城の国」中公新書、7頁~20頁、アロイス・イラーセク 著、浦井康男 訳・注解「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会)121頁~123頁、446頁参照。)

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画面右下には、ミサなどの典礼にスラヴ語を用い、メトディオスをモラヴィアの大司教として承認する旨の、ローマ教皇ヨハネス8世の勅書を読み上げる助祭と、それを聞くモラヴィア国王スヴァトプルク。中央には、ひざまずく二人の見習い僧を左右に従えて立つメトディオス。左下には、彼の信奉する民衆たち。

画面上中央には、ドイツ皇帝に支配を及ぼすローマ教皇、ビザンチン皇帝、正統派教会の指導者ら。その下には、スラブ民族を統率する、マントをまとった姿のキリル。

画面右上には、二組のカップル。ブルガリアの聖ボリス (Boris I of Bulgaria) と彼の妻、そして、聖オリガ (Saint Olga) と彼女の夫であるロシアのキエフ大公国第2代大公イーゴリ1世 (Igor of Kiev) 。

手前には、「統一の力」(strength in unity) を象徴する、大きなリングを空に掲げた若い男が描かれています。

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04. Tsar Simeon I of Bulgaria (1923) ブルガリアの皇帝シメオン1世
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9世紀の変わり目に、ブルガリアの黄金時代を築いたシメオン1世。 彼は、若い頃、ビザンチンで教育を受けたが、スラヴ文化をビザンチンと同様のレベルに引き上げようと決意。 学者達を集め、ビザンチンの文献をスラヴ語に翻訳させました。

また、先ほどの大モラヴィアの大司教メトディオス亡き後、大モラヴィアではスラヴ語の典礼が廃止され、メトディオスの弟子達は追放されてしまいましたが、ブルガリアの皇帝シメオン1世は、この追放された弟子達のために、避難先を提供したのでした。

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05. King Otakar II of Bohemia (1924) プシェミスル朝のボヘミア王、オタカル2世
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プシェミスル朝のボヘミア国王、オタカル2世(King Otakar II of Bohemia 1230年? - 1278年、在位1253年 - 1278年)は、最強の実力者として、その勢力を盤石なものにするため、婚姻政策によりハンガリー国王ベーラ4世(Hungarian King Béla IV)との結びつきを深めていきました。

まずは、1261年10月25日、オタカル2世自らがハンガリー王の孫娘クニグンデ (Kunigunde) と再婚。 次いで、オタカル2世は、彼の姪とハンガリー王の若い息子との婚姻をアレンジし、1264年10月5日、盛大な結婚式をあげさせた。
この盛大な祝賀会には、ハンガリー国王ベーラ4世のほか、東ヨーロッパの広地域ルーシを支配していたダヌィーロ・ロマーノヴィチ (the King Daniel of Galicia), セルビア国王ステファン・ウロシュ1世 (the Serbian King Stefan Uroš I)、クロアチア、ボスニア、トランシルヴァニアなどの君主が列席。
これによって、ボヘミアとハンガリーとの同盟関係が確立されました。

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06. Coronation of the Serbian Tsar Stefan Uroš Dušan as East Roman Emperor (1923) 東ローマ皇帝として戴冠する、セルビア皇帝ステファン・ウロシュ・ドゥシャン
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07. Jan Milíč of Kroměříž (1916) クロミェジージュのヤン・ミリーチ
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14世紀、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の宮廷に仕えるも、のちに職を辞し、説教師となって教会批判を行ったクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去)。

ヤン・リミーチは、プラハの売春婦を悔い改めさせ、売春宿を取り壊した跡地に、慈善施設「エルサレム」、聖マグダラのマリア教会、そして悔い改めた罪人のための収容施設を、カレル4世の助けを借りて建設しました。

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08. After the Battle of Grunwald (1924) グリュンヴァルトの戦いの後
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1410年7月15日の、グリュンヴァルト (タンネンベルク)の戦い(Battle of Grunwald (Tannenberg))。
この戦いは、中世ヨーロッパにおける最大の戦いの一つで、ポーランド・リトアニアを中心とし、ボヘミアなどを含む連合国と、ドイツ騎士団の軍とが激突。 ポーランド側が大勝利を収めました。

この戦いにおいては、当時プラハの宮廷に仕えていたヤン・ジシュカ(Jan Žižka)もポーランドを助けるために戦いに参加し、そこで片目を切られたといわれています(アロイス・イラーセク 著、浦井康男 訳・注解「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会)286頁~287頁、510頁)。
のちに、ジシュカは、ボヘミアの宗教改革、民族主義運動の中心人物となるヤン・フスに共鳴し、フスの火刑(1415)後、ボヘミア南部に共同体的要塞都市ターボルを築き、フス戦争では、神聖ローマ皇帝ジギスムントの十字軍を撃破しました。

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09. Master Jan Hus Preaching at Bethlehem Chapel (1916) ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス
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★以前書いた記事:プラハ 「ベツレヘム礼拝堂」、ヤン・フスの説教 ミュッシャ「スラブ・エピック」

1412年、フスが説教を行った、ゴシック最盛期の礼拝堂の様子を再現。
右側、赤い天蓋の下、フスの説教を熱心に聞き入っている女性は、カレル4世の息子であるヴァーツラフ4世(Wenceslaus IV, Václav IV.) の王妃ソフィア

ヤン・フス(Jan Hus, 1370年頃 - 1415年) は、ボヘミアにおける宗教改革で指導的立場に立った人物。

1402年、ベツレヘム礼拝堂の説教師に任命されたフスは、1402年から1413年にかけて、収容人数 3,000人といわれる、この礼拝堂で、カトリック教会の堕落を糾弾。 教会改革を訴えたほか、ローマ教皇のよる「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)の販売を批判。

「コンスタンツ公会議」において矯正不可能な異端者と宣告され、1415年7月6日、火あぶりの刑に処されました。

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10. The Meeting at Křížky (1916) クジーシュキでの集会
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・・・後で加筆予定です。

続きます。

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ミュシャ スラブ叙事詩を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ

プラハの夜景を見る」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ最終日の午前中、ミュシャ スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ。

宿泊したホテル、グランド・ホテル・ボヘミアの窓から、遠くにプラハ城を望む。青空がきれい。眺めも良かったし、名残惜しい。
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路面電車 24番で Náměstí Republiky (共和国広場) から Veletržní palác (ヴェレトゥルジュニー宮殿) へ。
★以前書いた記事: プラハ 路面電車でプラハ城へ ★路線図&時刻表
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路面電車の車窓から、ヴルタヴァ川を眺める。 「シュテファニーク橋」"Štefánikův most" (シュテファニクーフ・モスト) を渡って、対岸へ。
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Veletržní palác (ヴェレトゥルジュニー宮殿) 到着。
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大きなビルの 「ヴェレトゥルジュニー宮殿・プラハ国立美術館 (Veletržní palác - プラハ国立美術館(Národní galerie v Praze, the National Gallery in Prague))」 http://www.ngprague.cz/

中は広く、ミュシャ(ムハ)「スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)」 Alfons Mucha: Slovanská epopej 特別展のチケット(1枚 180チェコ・コルナ(CZK)、日本円で900円くらい)を買って、一階左の特別展の入口へ。

その入ってすぐ右側にある受付で、スラブ・エピックのパンフレットがあるかどうかを聞いて、英語でスラブ・エピック全20作、各作品の詳しい解説が書いてあるパンフレットを購入。
パンフレットがあるかどうかも、特に表示がなかったような気がするので、受付の人に聞いてみて良かったflair
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ミュシャ「スラブ叙事詩」全20作。一作一作、とても大きい作品なのに、とにかくびっくり。
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続きます。「ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半

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プラハの夜景を見る

プラハ ボタニクスでお土産を買う ウンゲルトで晩ご飯」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ最後の夜は、ボタニクスでお土産を買って、ウンゲルトで晩ご飯のあと、カレル橋まで歩きました。

旧市街広場 旧市庁舎の塔。 時計の針は、夜10時25分。
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旧市街広場にあるレストランのテラスは、大賑わい。人通りも多かった。

旧市街広場 ティーン教会の塔。 ライトアップされた塔は、必見の美しさshine
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カレル橋の手前。 カレル橋の旧市街橋塔。 こちらもライトアップ。
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カレル橋の上。 夜10時45分頃にして、この人の多さ!!
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カレル橋から、ライトアップされたプラハ城を眺めるcrownshine
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橋の上の彫像と満月
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旧市庁舎の時計塔とティーン教会
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旧市庁舎の天文時計 夜11時25分。
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昼間の天文時計
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王の道、ツェレトナー通りから火薬塔を望む。
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雰囲気ある石畳の道
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まさに、夢のようなひととき。 素敵なプラハ、最後の夜でした。

翌日はいよいよ待望の、ミュシャ 「スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)」特別展 @ヴェレトゥルジュニー宮殿・国立美術館 (Veletržní palác - Národní galerie) http://www.ngprague.cz/

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プラハ ボタニクスでお土産を買う ウンゲルトで晩ご飯

プラハ建築散歩 ヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区)パリ通り」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ ヨゼフォフ、19世紀末から20世紀初頭にかけての都市再開発に基づく、瀟洒な街並みを眺めたあと、
パリ通り(パジーシュスカー通り Pařížská)から旧市街広場に出て、左側へ。 ドロウハー通り (Dlouhá) から 5つ角にある広場。 この角にある、写真左側、タマネギの形の塔のある建物には、
人気ベーカリー 「 ベイクショップ (Bakeshop)」 http://www.bakeshop.cz/
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もうちょっと長い滞在だったら、入ってみたかったなぁ。
5つ角から、ぐるっと歩いて、ティーン教会の裏手にある ウンゲルト (Ungelt) へ。

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チェコのウンゲルトにある 「ボタニクス(Botanikus)」 でお土産を買いました。

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香りのいい石鹸やフェイスクリームなど、ナチュラルスキンケア製品がいっぱいあって、目移りしまくりshine

私が買って一番良かったなと思ったのは、日本未入荷の Botanicus Shea Hemp and Neroli Anti-aging & Replenishment Night Butter

これは。自然なネロリの香りがたまらないシアバターのナイトクリームheart01 アロマの先生も気に入って、使い終わった後、チェコの公式サイトからお取り寄せしてたほどlovely ネロリの香り好きにとっては、たまらない香りheart04

あとは、一番香りの気に入ったシトラス系の石鹸と、死海の泥の石鹸 Dead Sea Mud Specialty Soap。

それからお土産に無難かもなローズフェイス&ボディミルク Rose Body & Face Milk。
香りのアイテムは、人によって好き好きがあるので、ほんとに無難な選択。母へのお土産に気に入ってもらえました。

日本でも公式サイトの通販あり。 http://www.botanicus-shop.jp/

★プラハ ボタニクス Botanikus http://www.botanicus.cz/
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ウンゲルトの中庭にあるアイリッシュパブ 「The Dubliner Irish Pub」 http://www.aulddubliner.cz/ のテラス席で晩ご飯。

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最初はチェコビールで乾杯。2杯目からは、とっても美味しいアイリッシュビール(笑)。 食事も美味しかったし、女性の店員さんも感じが良かったし、今でも、とてもいい印象が残ってますcuteup
トイレを借りに、お店の中へ。若い人たちがいっぱい。 賑わっていました。

夜のウンゲルト
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続きます。「プラハの夜景を見る

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プラハ建築散歩 ヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区)パリ通り

プラハ シナゴーグ 地図 (旧ユダヤ人街 ヨゼフォフ)」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

★プラハ シナゴーグの地図 (クリックで拡大)https://mapy.cz/ に加工
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プラハのシナゴーグのあるヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区)を歩いて、「パリ通り」(パジーシュスカー通り Pařížská )へ。
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アールヌーヴォーの装飾のある美しい玄関
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こちらは、かつてのユダヤ人街でゲットーのあった場所。

マリア・テレジアの息子、ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741-1790)によってゲットーが廃止され、ゲットーを取り囲んでいた壁は取り壊されましたが、裕福なユダヤ人がここを去って、スラム化してしまいます。

そこで、19世紀末から20世紀初頭にかけて、シナゴーグ以外の古い建物が取り壊され、パリの街並みをお手本に、歴史的建築意匠が組み合わされた、アールヌーヴォーの装飾のあるファサードのある建物が新たに建てられ、この通りは 「パリ通り」(パジーシュスカー通り Pařížská ulice)と名付けられました。

高級建築物が建ち並ぶ緑の街路樹clover。 このパリ通りには、数多くの高級ブランドshineのブティックがあり、中には入りませんでしたが、その建築の美しさに目を奪われ、優雅な気分にcute

ロレックスのブティックが入っているタウンハウス(townhouse)。写真右側の緑の街路樹のある通りが、パリ通り。左側はシロカー通り。
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Jimmy Choo (ジミーチュウ)のブティックが入っているタウンハウス。
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上品で美しいファサード。
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この細かなディテールに目を奪われる。
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女神さま、そしてワシ?がお出迎えしてくれている玄関
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パリ通りとシロカー通りの角にある、近代的な公衆トイレ
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パリ通りの先には、旧市街広場(写真には、ヤン・フス像が小さく写っています)。 その手前にあるカルティエのブティック入っているタウンハウス Scnierův dům
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旧市街広場に面したファサードに施された彫刻。これもまた美しいlovely
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http://stary-web.zastarouprahu.cz/ruzne/schier.htm 参照(チェコ語)

そして、旧市街広場。 夕刻の日に照らされたキンスキー宮殿と、ティーン教会。 手前には、ヤン・フス像。
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歴史的なシナゴーグ。美しい街並。ヨゼフォフ(旧ユダヤ人街)散策、楽しかったです。

このあと、ウンゲルトの中にあるボタニクスでお土産を買って、ウンゲルトの中にある The Dubliner Irish Pub のテラスで晩ご飯。
街灯に照らされた石畳の道を歩いて、カレル橋まで。 プラハ最後の夜を過ごしました。

続きます。「プラハ ボタニクスでお土産を買う ウンゲルトで晩ご飯

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