ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半、「The Magic of Words」三部作
「ミュシャ スラブ叙事詩を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事
「スラブ叙事詩」(スラブ・エピック Slovanská Epope, The Slav Epic)は、アルフォンス・ミュシャ (ムハ Alfons Maria Mucha, 1860 - 1939) が、1912年から1926年にかけて描いた、全20作の連作画。
★http://www.ngprague.cz/en/exposition-detail/alfons-mucha-the-slav-epic/
プラハ国立美術館(Národní galerie v Praze, the National Gallery in Prague http://www.ngprague.cz/en/)では、スラブ叙事詩のうち7作品は 610×810cm というサイズの大きさ、スラブ民族の歴史を伝えようとするミュシャの思いの強さが伝わって来て、ただただ圧倒されました。
この超大作「スラヴ叙事詩」は、2017年3月8日(水曜日)から、6月5日(月曜日)まで (火曜休館)、六本木の国立新美術館の「ミュシャ展」で、チェコ国外の世界初公開とのこと。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
http://www.mucha2017.jp/
プラハ国立美術館、ヴェレトゥルジュニー宮殿(現在は Trade Fair Palace に改名)での特別展(2012年5月10日から 2016年12月31日まで)は、人が少なく混雑とは無縁で、ゆっくり見られました。 日本における特別展では、充実した日本語でのオーディオガイドやカタログが期待できそうなので、また見に行くのが楽しみです
ミュシャの生涯とスラブ叙事詩の映像も流れていました。
これらの作品を見て、チェコの歴史をもっと知りたくなり、いろいろ本を読むきっかけとなりました。
タイトルは、パンフレットと http://www.muchafoundation.org/gallery/themes/theme/slav-epic より
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01. The Slavs in Their Original Homeland (1912) 原故郷のスラヴ民族
古代のスラブでは、数多くの戦いが繰り広げられました。
画面下には、スラヴ民族の祖先としてのアダムとイブが、無防備な難民としてうずくまっています。 星のきらめく暗い夜空をバックに、異教(キリスト教ではない、スラヴ独自の宗教)の司祭が神秘的に浮かび上がり、司祭は、戦争のアレゴリーである男性と、平和のアレゴリーである女性を左右に従えています。
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02. The Celebration of Svantovit in Rügen (1912) リューゲン島のスヴァントヴィート祭
バルト海沿岸のリューゲン島のアルコナ(Arkona)には、かつて、キリスト教への改宗を拒んできた、スラヴ異教徒の砦があり、アルコナ岬では、毎年収穫祭が行われていました。 しかし、1168年、キリスト教徒のデンマーク王ヴァルデマー1世によって征服され、スヴァントヴィートの寺院は破壊されてしまいます。
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03. Introduction of the Slavic Liturgy (1912) スラヴ式典礼の導入
モラヴィア王ロスチスラフ (Rastislav of Moravia) は、キリスト教国として宗教的にも自立すべく、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に支援を仰ぎ、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟コンスタンティノス(キリル Cyril)とメトディオス Methodius の派遣を受けました。弟コンスタンティノス(キリル)は、スラヴ語を書き表す文字を考案し、キリスト教の福音書など、多くのキリスト教関係の文献をスラヴ語に翻訳。兄弟は、モラヴィアでキリスト教の布教活動を行い、弟子を育成しました。
その後、兄弟はローマに赴き、教皇ハドリアヌス2世 (Pope Adrian II) から歓待を受け、ミサなどの典礼用語としてスラヴ語を用いてよいとの承認を獲得。
しかし、ローマ滞在中の869年、コンスタンティノスは病死。その死の直前に修道士となり、キュリロス(キリル)という名前を得ます。兄メトディオスは、教皇からパンノニアとモラヴィアを含むシルミウム大司教に任命され、870年、再びモラヴィアに赴きました。
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しかし、それ以前には、現在のドイツにあたる東フランク王国、パッサウ司教の監督下に置かれていたモラヴィア。 東フランク王国の聖職者らは、典礼用語としては、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語を用いるべきで、それ以外の言語を用いるべきではないと主張していたのです。
そのため、メトディオスは東フランク側に捕らえられ、873年、教皇ヨハネス8世によって釈放されるまで獄中生活を送るはめに・・・。
【※聖書は、旧約聖書と新訳聖書から成り、旧約聖書は、もともと古代イスラエル民族に伝わる口承文学。古くは、ユダヤ教の聖典として確立され、キリスト教、イスラム教の信仰の拠りどころともされています。
旧約聖書のヘブライ語聖書は、前3世紀にエジプトのプトレマイオス2世の命によってギリシア語に翻訳。そして、カトリック教会の正典のラテン語訳聖書(ウルガータ聖書)は、382年から405年にかけて、ヒエロニムスによって、ヘブライ語、ギリシア語の原テキストからラテン語に翻訳されました。
これに対して、新約聖書は、すべてギリシャ語で書かれています(季刊誌「考える人」2010年春号 特集「はじめて読む聖書」52~53頁 山形孝夫「聖書ってどんな本?」、田川建三ほか「はじめて読む聖書」新潮選書】
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メトディオスがやっと解放された後、大モラヴィア (Great Moravia) を統治していたのは、スヴァトプルク (Svatopluk I of Moravia)。スヴァトプルクは、教皇の裁定を仰ぐために、教皇のいるローマへとメトディオスを派遣します。
880年、ローマ教皇ヨハネス8世 (Pope John VIII) は、スラヴ語での典礼に正当性があることを承認しました。
もっとも、まずはラテン語で、その後にスラブ語の翻訳で典礼を行うという条件付き。このように、双方の融和を図る形でスラヴ式典礼が導入されたでした。
以上、【※】以外、薩摩秀登著「物語 チェコの歴史 森と高原と古城の国」中公新書、7頁~20頁、アロイス・イラーセク 著、浦井康男 訳・注解「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会)121頁~123頁、446頁参照。)
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画面右下には、ミサなどの典礼にスラヴ語を用い、メトディオスをモラヴィアの大司教として承認する旨の、ローマ教皇ヨハネス8世の勅書を読み上げる助祭と、それを聞くモラヴィア国王スヴァトプルク。中央には、ひざまずく二人の見習い僧を左右に従えて立つメトディオス。左下には、彼の信奉する民衆たち。
画面上中央には、ドイツ皇帝に支配を及ぼすローマ教皇、ビザンチン皇帝、正統派教会の指導者ら。その下には、スラブ民族を統率する、マントをまとった姿のキリル。
画面右上には、二組のカップル。ブルガリアの聖ボリス (Boris I of Bulgaria) と彼の妻、そして、聖オリガ (Saint Olga) と彼女の夫であるロシアのキエフ大公国第2代大公イーゴリ1世 (Igor of Kiev) 。
手前には、「統一の力」(strength in unity) を象徴する、大きなリングを空に掲げた若い男が描かれています。
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04. Tsar Simeon I of Bulgaria (1923) ブルガリアの皇帝シメオン1世
9世紀の変わり目に、ブルガリアの黄金時代を築いたシメオン1世。 彼は、若い頃、ビザンチンで教育を受けたが、スラヴ文化をビザンチンと同様のレベルに引き上げようと決意。 学者達を集め、ビザンチンの文献をスラヴ語に翻訳させました。
また、先ほどの大モラヴィアの大司教メトディオス亡き後、大モラヴィアではスラヴ語の典礼が廃止され、メトディオスの弟子達は追放されてしまいましたが、ブルガリアの皇帝シメオン1世は、この追放された弟子達のために、避難先を提供したのでした。
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05. King Přemysl Otakar II of Bohemia (1924) プシェミスル朝のボヘミア王、オタカル2世
プシェミスル朝のボヘミア国王、オタカル2世(King Otakar II of Bohemia 1230年? - 1278年、在位1253年 - 1278年)は、最強の実力者として、その勢力を盤石なものにするため、婚姻政策によりハンガリー国王ベーラ4世(Hungarian King Béla IV)との結びつきを深めていきました。
まずは、1261年10月25日、オタカル2世自らがハンガリー王の孫娘クニグンデ (Kunigunde) と再婚。 次いで、オタカル2世は、彼の姪とハンガリー王の若い息子との婚姻をアレンジし、1264年10月5日、盛大な結婚式をあげさせます。
この盛大な祝賀会には、ハンガリー国王ベーラ4世のほか、東ヨーロッパの広地域ルーシを支配していたダヌィーロ・ロマーノヴィチ (the King Daniel of Galicia), セルビア国王ステファン・ウロシュ1世 (the Serbian King Stefan Uroš I)、クロアチア、ボスニア、トランシルヴァニアなどの君主が列席。
これによって、ボヘミアとハンガリーとの同盟関係が確立されました。
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なお、このオタカル2世は、1246年、最初の結婚でバーベンベルク家出身のオーストリア公の公女マルガレーテと結婚。バーベンベルク家の男子継承者は断絶していましたが、女子の相続が認められていたので、オタカル2世はオーストリア公領を手に入れていました(再婚前に、オタカル2世側からマルガレーテと離縁)。
このオタカル2世が国を治めた13世紀頃、ボヘミアではクロナー・ホラの銀山をはじめとする、鉱山の開発が進められたほか、130もの都市が創られ、経済的にも発展。
「鉄と黄金の王 (Iron and Gold King)」と呼ばれたオタカル2世でしたが、1278年8月26日、現在オーストリアのマルヒフェルトの戦いで、ドイツ王ルドルフ1世(1218年 - 1291年)に敗北。戦死。
ルドルフ1世は、ハプスブルク家最初の神聖ローマ帝国皇帝となったのでした。(菊池良生著「神聖ローマ帝国」講談社現代新書 140頁参照)
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06. Coronation of the Serbian Tsar Stefan Uroš Dušan as East Roman Emperor (1923) 東ローマ皇帝として戴冠する、セルビア皇帝ステファン・ウロシュ・ドゥシャン
ステファン・ドゥシャン(Štěpán Dušan 1308 - 1355)は、1331年にセルビアの皇帝となり、東ローマ帝国の勢力が衰える中、アルバニアとマケドニアを奪取。セルビア王国の領土を拡張。帝国の全盛期を築きました。(Wiki)
ステファン・ドゥシャンは、自らを「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、1346年の復活祭の日曜日、皇帝として戴冠。この画には、この戴冠式のあとの行進で、行列の真ん中に立つステファン・ドゥシャンの姿が描かれています。
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07. Jan Milíč of Kroměříž (1916) クロミェジージュのヤン・ミリーチ
14世紀、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の宮廷に仕えるも、のちに職を辞し、説教師となって教会批判を行ったクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去)。
ヤン・リミーチは、プラハの売春婦を悔い改めさせ、売春宿を取り壊した跡地に、慈善施設「エルサレム」、聖マグダラのマリア教会、そして悔い改めた罪人のための収容施設を、カレル4世の助けを借りて建設しました。
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08. After the Battle of Grunwald (1924) グリュンヴァルトの戦いの後
1410年7月15日の、グリュンヴァルト (タンネンベルク)の戦い(Battle of Grunwald (Tannenberg))。
この戦いは、中世ヨーロッパにおける最大の戦いの一つで、ポーランド・リトアニアを中心とし、ボヘミアなどを含む連合国と、ドイツ騎士団の軍とが激突。 ポーランド側が大勝利を収めました。
この戦いにおいては、当時プラハの宮廷に仕えていたヤン・ジシュカ(Jan Žižka)もポーランドを助けるために戦いに参加し、そこで片目を切られたといわれています(アロイス・イラーセク 著、浦井康男 訳・注解「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会)286頁~287頁、510頁)。
のちに、ジシュカは、ボヘミアの宗教改革、民族主義運動の中心人物となるヤン・フスに共鳴し、フスの火刑(1415)後、ボヘミア南部に共同体的要塞都市ターボルを築き、フス戦争では、神聖ローマ皇帝ジギスムントの十字軍を撃破しました。
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09. Master Jan Hus Preaching at Bethlehem Chapel (1916) ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス
★以前書いた記事:プラハ 「ベツレヘム礼拝堂」、ヤン・フスの説教 ミュッシャ「スラブ・エピック」
1412年、フスが説教を行った、ゴシック最盛期の礼拝堂の様子を再現。
右側、赤い天蓋の下、フスの説教を熱心に聞き入っている女性は、カレル4世の息子であるヴァーツラフ4世(Wenceslaus IV, Václav IV.) の王妃ソフィア
ヤン・フス(Jan Hus, 1370年頃 - 1415年) は、ボヘミアにおける宗教改革で指導的立場に立った人物。
1402年、ベツレヘム礼拝堂の説教師に任命されたフスは、1402年から1412年にかけて、収容人数 3,000人といわれる、この礼拝堂で、カトリック教会の堕落を糾弾。 教会改革を訴えたほか、ローマ教皇のよる「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)の販売を批判。
「コンスタンツ公会議」において矯正不可能な異端者と宣告され、1415年7月6日、火あぶりの刑に処されました。
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10. The Meeting at Křížky (1916) クジーシュキでの集会
カトリックの公式教義によれば、俗人の聖体拝領は、キリストの肉であるパンだけで十分とされていますが、1414年末、ウィクリフ派のストシーブロのヤコウベクは、福音書にあるキリスト最後の晩餐のときの言葉に基づき、聖職者と同様、俗人であっても、パン
と葡萄酒
の両方を用いた聖餐(両形色の聖餐)を施すべきという二種聖餐を主張(両形色説、ウトラキスムス)。これがフス派の支持を集め、葡萄酒を入れる聖杯がフス派の運動のシンボルとなりました。
この両形色説の教義を信仰する者は、ウトラキスト(Utraquists)と呼ばれ、カトリック教会と対立。ウトラキストの聖職者は、ヤン・フスの火刑後、カトリック側の圧力により活動を制限される中、プラハなどの都市から離れた山の上で人々を集めて説教を行うようになりました。(薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 109頁~121頁、アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 付録 ヤン・ジシュカとフス派戦争(浦井康男)403頁~407頁)
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このような山への巡礼は、当初は平和的なものでした。しかし、1419年9月30日、プラハの南東、ベネショフ (Benešov) の近くにあるクジーシュキ (Křížky) において、急進的な西ボヘミア、プルゼニ Plzeň(ドイツ語名: ピルゼン Pilsen)の僧、ヴァーツラフ・コランダ (Václav Koranda) は、信者は巡礼のための杖ではなく、剣を持って信仰を守るべしと主張。
この声明が、フス派による改革運動に勢いを与え、フス派戦争勃発への引き金となりました。
プルゼニ(ピルゼン)からの巡礼者は、一日前に説教の場に到着して野営。曙光の中、プラハから続々と到着する群衆たち。赤と白の旗印の下、方々から詰めかける巡礼者を見下ろす仮設の説教壇の上に立ち、祈りを捧げようとしているヴァーツラフ・コランダの姿が描かれています。
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ミュシャは、スラヴ叙事詩において、 14世紀から15世紀にかけてのボヘミアとモラヴィアの改革の伝道者にスポットをあてた「The Magic of Words」三部作を描きました。
この三部作の中心に位置するのが、ヤン・フスに捧げた、「09. Master Jan Hus Preaching at Bethlehem Chapel (1916) ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス」。
その左に縦のパネルで、ヤン・フスの師、クロミェジージュのヤン・ミリーチ、「07. Jan Milíč of Kroměříž (1916) クロミェジージュのヤン・ミリーチ」。
その右に縦のパネルで、ヤン・フスの継承者とみなされるヴァーツラフ・コランダ、「10. The Meeting at Křížky (1916) クジーシュキでの集会」 が描かれたのでした。
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