ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 後半
「ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半、「The Magic of Words」三部作」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事
ひきつづき、アルフォンス・ミュシャ (ムハ Alfons Maria Mucha, 1860 - 1939) が、1912年から1926年にかけて描いた、全20作の連作画「スラブ叙事詩」(スラブ・エピック Slovanská Epope, The Slav Epic)の後半です。
タイトルは、パンフレットと http://www.muchafoundation.org/gallery/themes/theme/slav-epic より
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11. After the Battle of Vítkov Hill (1923) ヴィートコフの丘の戦いの後
1420年7月14日。神聖ローマ皇帝ジクムント率いる十字軍は、カトリックの立場からは異端のフス派を撲滅すべく、ヴィートコフの丘を拠点として、攻撃を開始しました。
他方、ボヘミアの宗教改革の中心人物となったヤン・フスに共鳴し、フスの火刑(1415年)後、ボヘミア南部に共同体的要塞都市ターボルを築いた、トロツノフ (Trocnov) 出身のヤン・ジシュカ(Jan Žižka)。
ジシュカ率いる農民が主体の規律ある軍隊であるターボルの軍は、十字軍を撃退。
ここでは、戦いに勝利し、ヴィ ートコフの丘で、神への感謝を捧げる様子が描かれています。
両形色説の教義を信仰するウトラキスト(Utraquists)の司祭を前に、黄昏の光に照らされるジシュカ。
何人かは、司祭の前に五体投地し、敬虔な祈りを捧げています。
これに対して、左前方にいるフス派の女性は、一人背を向け、これからのフス戦争で犠牲になるであろう自らの子供たちの将来に思いを巡らせ、暗い想いに沈み込むのでした。
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12. Petr Chelčický at Vodňany (1918) ヴォドニュニ近郊のペトル・ヘルチスキー
スラヴ叙事詩において、フス派から分派した「同胞同盟」(Jednota bratrská, The Unity of the Brethren) について、ミュシャは3つの作品を描いています。
その一つが、このボヘミアの宗教的社会思想家ペトル・ヘルチスキー (Petr Chelčický 1390年頃 - 1460年頃) に関する画。
ヘルチスキーは、最初はフス派の教えに共鳴していたものの、暴力による闘争は「悪」であるとして、無抵抗主義を唱えました。彼はフス派の運動から離れ、農村において、農民とともに労働と祈りの日々を送り、その活動が、15. The Brethren School in Ivančice イヴァンチツェの兄弟団学校、そして、16. Jan Amos Komenský ヤン・アモス・コメンスキー (コメニウス) のボヘミア兄弟団の活動へと繋がっていきました。
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1920年の一連のフス戦争において、ジシュカ率いるターボル (Tábor) 軍は、遠征先で侵略、略奪を行うようになり、南ボヘミアにあるヴォドニュニ(Vodňany)の街は焦土と化してしまいました。
住民は、近郊にある、ヘルチツェ (Chelčice) という、後にペトル・ヘルチスキーの名前にちなんで名付けられた村に避難し、池の堤まで犠牲となった負傷者と死者を運びました。
画面中央で、ヘルチスキーは、血なまぐさい復讐に燃え、手を振り上げる男の手をつかみ、復讐をしないよう説得する様子が描かれています。
以上、ペトル・ヘルチスキーについては、薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 134頁~136頁、178頁。アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 訳者解説 「同胞同盟」(浦井康男)529頁~530頁。イヴァンチツェの兄弟団学校については、同532頁。ヤン・アーモス・コメンスキー (コメニウス)については、同535頁~536頁。
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13. The Hussite King Jiří of Poděbrady (1923) フス派の国王、ポジェブラディのイジー
1436年、ようやくフス派とカトリック教会との間で和平が成立。その後、数々の変遷を経て、1458年3月2日、フス派の国王、ポジェブラディのイジー (Jiří z Poděbrad, George of Poděbrady, ボヘミア国王在位:1458- 1471) は、プラハ旧市庁舎でボヘミア国王に選出されました(薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 171頁)。
ポジェブラディのイジーは、1462年、ローマ教皇ピウス2世と対立。
画面では、ローマ教皇から派遣された特使が、イジーに対してカトリックへの改宗を迫るも、イジーが椅子を倒すほどの剣幕で、これを拒む姿が描かれています。
その結果、イジーは、1466年、ローマ教皇パウルス2世によって破門されてしまうのでした(ブリタニカ国際大百科事典「イジー」、薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 188頁、2017年3月8日〜6月5日開催国立新美術館ミュシャ展のカタログ解説より)。
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14.The Difence of Szigetvár against the Turks by Nikola Zrinski (1914) ニコラ・ズリンスキによるシゲトヴァールの対トルコ防衛戦
クロアチアのバン(総督)、ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ (Nikola Šubić Zrinski 1508年 - 1566年)は、ハプスブルク家に仕えたクロアチアの将軍。
1566年8月5日から9月7日にかけて、彼の部隊(2,300人)は、スレイマン1世自ら率いる少なくとも15万人ものオスマン帝国軍に対して、ハンガリー領の要塞、シゲトヴァールを死守戦うも (シゲトヴァールの戦い Siege of Szigetvár) 最後は全員が戦死。 https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Szigetv%C3%A1r
画面背景には、ニコラ・ズリンスキに向かって、誓いを立てる人々。火薬を蓄えていた高い砦の塔の側の足場に上って、戦いに備える女性や子供達。
そして、その足場の一番上には、かがり火用の金属製のかご(油壺)を持って立つ、ニコラ・ズリンスキの二番目の妻、南ボヘミア、ローゼンバーグ Rožmberk 出身のエヴァ。
彼女が、手にした火のついた油壺を、砦の火薬めがけて投げ入れるタイミングを見計らっている様子が描かれています。
現実には、ニコラ・ズリンスキの妻、エヴァは、砦の攻防戦には参加していませんでしたが、ミュシャは、ボヘミア民族とのつながりを表す人物として、エヴァを描きました。
前景の暗く立ち上るラインは、火薬の爆発による犠牲者を暗示する黒煙の柱です。
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15. The Brethren School in Ivančice (1914) イヴァンチツェの兄弟団学校
前述、12. Petr Chelčický (1918) ペトル・ヘルチスキーの「同胞同盟」の活動は、やがて、チェコを代表する人文主義者ヤン・ブラホスラフ(Jan Blahoslav 1523年-1571年)へと引き継がれました。
この画には、ヤン・ブラホスラフも学んだ、モラヴィア地方、イヴァンチツェの「同胞同盟」の学校、「同胞同盟」の活動を受け継いだ「ボヘミア兄弟団」(Bohemia Brethren)の学校の様子が描かれています。
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ブラホスラフは、イヴァンチツェに印刷所を開設し、賛美歌集のほか、チェコ語訳の新約聖書を出版。ブラホスラフの死後も活動は受け継がれて、チェコ語訳の旧約聖書が完成。 1578年、迫害を回避するため、イヴァンチツェからクラリツェ・ナド・オスラヴィウへと印刷所が移され、そこでクラリツェ聖書(The Bible of Kralice)が印刷、出版されました。そして、ここで使われた文章は、現代チェコ語の基礎となったのでした。
※以上、アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 訳者解説 「同胞同盟」【ヤン・ブラホスラフ】【クラリツェ聖書】(浦井康男)531頁~533頁から引用。なお、クラリツェ聖書の図版は同書534頁。「ボヘミア兄弟団」については、ブリタニカ国際大百科事典。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bible_of_Kralice 参照
イヴァンチツェは、ミュシャの故郷でもありました。
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16. The Last days of Jan Amos Komenský in Naarden (1918) ヤン・アーモス・コメンスキー (コメニウス Comenius) のナールデンでの最後の日々
ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス 1592年-1670年)は、ボヘミアの宗教指導者、教育改革者。
前掲、12. Petr Chelčický ペトル・ヘルチスキーの「同胞同盟」の活動を受け継いだ、「ボヘミア兄弟団」(Bohemia Brethren)の学校で教育を受け、ドイツ、ハイデルベルク大学でなどで神学を修めたあと、帰国。
ボヘミア兄弟団の指導者となり、1618年に僧籍を得る。
同年、1618年5月23日、プラハ窓外放擲事件が発生。
※ボヘミアのカトリック推進政策により、北ボヘミアでプロテスタントの礼拝堂が閉鎖され、さらには、ウィーンの神聖ローマ皇帝マティアスによって、プロテスタントの諸身分の議会が中止されたことに反発したボヘミアの貴族が、行政局の部屋に押し入り、二人の高官と一人の書記官を、二階の窓から投げ落としたという事件。
★以前書いた、ブログ記事:プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠
プロテスタント同盟VS カトリック連盟との間で 「30年戦争」(1618-1648)が勃発。
1620年11月8日、プラハ近郊にある 「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」 (Battle of White Mountain) で、プロテスタント軍が敗北。1621年6月21日、反乱の首謀者が、プラハの旧市庁舎前の広場で処刑され、その後、非カトリックの人々は祖国を追われることになりました。
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コメンスキー(コメニウス)は各所を転々とし、「ボヘミア兄弟団」の代表の一人として、亡命者のために拠点を作り、1628年にポーランドの拠点に亡命。その後、イギリス、スウェーデン、プロシア、オランダなどに移住。
コメンスキー(コメニウス)は、全ヨーロッパにおいて著名な教育楽的著作を執筆し、学校改革、教授法の改善に貢献。
オランダのアムステルダムで亡くなり、オランダの北ホラント州にあるナールデン(Naarden)に葬られました。
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画面右の遠景。死に際して、広大な水面を眺めながら、ただ一人、椅子にもたれ掛かって座るコメンスキー(コメニウス)の姿が描かれています。
「スラブ叙事詩(The Slav Epic)」の中で、ミュシャは唯一この画だけに、自らのサインを記しています。
アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 訳者解説 「同胞同盟」(浦井康男)529頁~530頁、ヤン・アモス・コメンスキー (コメニウス) については、同書535頁~536頁から引用。ほか、ブリタニカ国際大百科事典、参照。
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17. Holy Mount Athos (1926) 聖アトス山
アトス山は、ギリシャ北部、エーゲ海に突出する半島の最先端にある、標高二千メートルの山。東方正教会の聖地として、現在も20の修道院があり、女人禁制の巡礼の地。
前掲、03. Introduction of the Slavic Liturgy (1912) スラヴ式典礼の導入で述べたように、モラヴィアは、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟コンスタンティノス(キリル Cyril)とメトディオス Methodius の派遣を受け、弟コンスタンティノス(キリル)は、スラヴ語を書き表す文字を考案し、キリスト教の福音書など、多くのキリスト教関係の文献をスラヴ語に翻訳。兄弟は、モラヴィアでキリスト教の布教活動を行い、弟子を育成しました。
モラヴィアで生まれたスラヴ語によるキリスト教の典礼は、その後、ブルガリアに導入され、前掲、04. Tsar Simeon I of Bulgaria (1923) のように、ブルガリアの皇帝シメオン1世が、ビザンチンの文献を次々とスラヴ語に翻訳した結果、ブルガリアやマケドニア地方では、スラヴ語によるキリスト教文化が開花。
その結果、スラブ系の言葉は、東方正教会で用いられる主要言語の一つとなりました。(以上、薩摩秀登著「物語 チェコの歴史」中公新書 22頁などから引用)
このように、スラヴとギリシャの東方正教会とは言葉の上でも深いつながりがありますが、1924年4月、アトス山を訪れたミュシャは、この地の古代からのスピリチュアルな雰囲気に、深い感銘を受けました。
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画面下方では、ロシアからの巡礼者が腰をかがめ、跪き、そして、大修道院長(igumens)から差し出された聖遺物に口づけをしています。
地上と天井の間には、アトス山にある4つのスラヴ系修道院を表わす模型を持つ智天使 (the cherubim) が、中心となる大修道院長に伴われて浮かび上がり、浮留する天使たちの姿もあり。
神秘的なシーンは、後陣 (the apse) にあるギリシア正教の「神の母」 Teotokos のモザイクで頂点に達しています。
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18. The Oath of Omladina under the Slavic Linden Tree (1926 未完) スラヴ菩提樹の下でのオムラディナ(オムラジナ)の誓い
オムラディナ(オムラジナ Omladina)は、1894年に創設されたチェコの民族主義の若者組織。 1904年、指導者は逮捕、起訴され、刑に処されました。
http://www.muchafoundation.org/gallery/themes/theme/slav-epic/object/229
ミュシャは、スラヴ・リバイバル (The Slavic Revival スラブ民族の復興)に情熱を傾けました。
そして、汎スラヴ主義の思想家、ヤン・コラール(Ján Kollár 1793 – 1852)の詩、「スラヴァの娘 The Daughter of Slavá」(1824) は、この画にインスピレーションを与えたものの一つ。
コラールの「スラヴァの娘」の詩では、スラヴの国樹である菩提樹 (Tree of Slav) と、スラブ民族の守護女神スラヴィア (Slávia) という二つのモチーフが使われています。ミュシャは、この二つのモチーフをリンクさせて、この画を構成しています。
まず中央、菩提樹の下で輪になって、繋いだ手を上げ、ひざまづく若い男性。 その周囲には、現代的な格好をして、誓いを立てるかのように手を上げた男たち。彼らの顔は画としては未完成なため、現実のモデルが誰かは判りません。
また、女性達は傍観者として描かれ、菩提樹の上には、スラブ民族の守護女神スラヴィア (Slávia) 。この花輪がいくつか配された理想郷で、セレモニーが行われている様子が描かれています。
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19. The Abolition of Serfdom in Russia (1914) ロシアの農奴制廃止
1861年にようやく廃止されたロシアの農奴制。雪の積もったクレムリン宮殿前、背後には雪に霞むワシリー大聖堂(St. Basil's Cathedral)。赤の広場に集まった民衆の姿が描かれています。
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20. The Apotheosis of the Slavs, Slavs for Humanity (1926) スラヴ民族の賛歌
この画では、4つの色でそれぞれの時代が象徴されています。
右下の青色は、スラヴ史の初期。左上の赤色は、中世のフス戦争で流された血の色。すぐ下の黒い影は、スラブ民族の敵。中央の黄色は、第一次世界大戦から戻ってきたチェコとスロバキアの兵士、そして、オーストリア-ハンガリー帝国(ハプスブルク家)による支配からの解放による新しい時代の幕開けを。
中心を占める手を広げた裸の胸像は、新しく独立した共和国の象徴。 背後に寄り添うキリストがこれを祝福しています。
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以上のように、ミュシャの「スラヴ叙事詩」には、広くロシア、ブルガリア、セルビアを含む、スラヴ語圏の民族の歴史が描かれています。
そこには、チェコ民族主義と、スラブ民族の連帯と統一を目標とする思想運動である、「汎スラブ主義」 (Pan-Slavism) のイデオロギーが反映されています。 http://www.19thc-artworldwide.org/spring14/dusza-on-pan-slavism-in-alphonse-mucha-s-slav-epic
※汎スラブ主義は、オーストリア、ドイツ、オスマン帝国などに圧迫されていた西・南スラブ諸族(特にチェコ族)におけるナショナリズムの覚醒に伴って始まった思想運動。1848年のプラハ会議に結集されますが、1860~70年代、ロシアの帝国主義的南下政策と結びつき、ロシアを盟主とした、汎ゲルマン主義に対抗するものとなりました。(以上、ブリタニカ国際大百科事典)。
このような歴史をふまえた画として「スラヴ叙事詩」を見ると、なおさら興味を惹かれます。
明日 2017年3月8日水曜日から、東京、六本木の国立新美術館で開催される 「ミュシャ展」 http://www.mucha2017.jp/ では、「スラブ叙事詩」 (The Slav Epic) 全20作が、チェコ国外では世界初公開となりますが (6月5日月曜日まで。火曜休館)、東京で再びこの絵に出会うのが楽しみでなりません。
続きます。「プラハ 産業宮殿 ウィーン・プラハ旅行(完)」
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