カテゴリー「プラハ個人旅行 Journey to Prague」の81件の記事

プラハ 産業宮殿 ウィーン・プラハ旅行(完)

ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 後半」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

2013/8/10(土)から8/18(日)までの、夫とオーストリアのウィーンと、チェコのプラハに旅行のブログ記事は、今回でやっと完結。 ウィーン編 71個+プラハ編 78 = 総計 149 (ほかに、まとめ記事2、乗り継ぎのアムステルダム空港1)。 途中、長い中断がありましたが、マイペースで楽しく書くことができました。

★ウィーン個人旅行の全体ついては、「ウィーン・プラハ個人旅行 02 ウィーン編まとめ Journey to Vienna (Wien)

★プラハ個人旅行の全体については、「ウィーン・プラハ個人旅行 03 プラハ編まとめ Journey to Prague (Praha)

★記事インデックスは「こちら

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さて、ミュシャの「スラヴ叙事詩」(The Slav Epic) の特別展を鑑賞した、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館、Národní galerie v Praze, the National Gallery in Prague 現在は Trade Fair Palace に改名) を出て、 すぐ近くにある路面電車の停留所から、24番で Veletržní palác (ヴェレトゥルジュニー宮殿) から Náměstí Republiky (共和国広場) へ戻って、宿泊していたホテル、グランド・ホテル・ボヘミアへ。

ヴェレトゥルジュニー宮殿の停留所から道の先のほうに、「産業宮殿」(Průmyslový palác, Industrial Palace)が見えました。
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この宮殿は、1891年に開催されたボヘミア王国領邦記念博覧会のときに建てられました。 この建物は、チェコで初めての鉄とガラスの建物で、チェコの近代化のシンボルとなったアール・ヌーヴォー様式の建築物 (田中充子著「プラハを歩く」(岩波新書)176頁~178頁)。

公式ページ http://www.vystavistepraha.eu/ を見ると、クラフトビールの祭典 SALÓN PIVA PRAHA 2017 beer が開催されたり、いろいろな楽しそうなイベントに使われていました。

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ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)の停留所のすぐ前には、壁画のある美しい建物。
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壁画の下に、Jiří Poděbradと書いてあるので、先ほどスラブ叙事詩の記事で書いた13. The Hussite King Jiří of Poděbrady フス派の国王、ポジェブラディのイジーの絵だと思います。
外壁のしっくい装飾、緑のバルコニーもお洒落。
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ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)の停留所
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車窓からの景色。路面電車の線がはりめぐらされている。
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ホテルに戻って、ホテルの transfer service を利用して、空港へ。

車窓から見た、「聖アネシュカ修道院」 (Klášter sv. Anežky České, Monastery of St. Agnes Czech) の「聖サルヴァトル教会」 (Kostel Sv. Salvátora, The Church of St. Salvator)。
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この教会は、ゴシック様式の教会としては、チェコ最古の歴史を有する教会の一つ(薩摩秀登著「物語 チェコの歴史」(中公新書)29頁)。 本には、この修道院の創設者、アネシュカ(1211年 - 1282年)をめぐるチェコ王家の年代記が面白かったので、外から垣間見られただけでも、ちょっと嬉しかった。

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歴史を感じる古い街並、そしてプラハ城。 名残惜しい。
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プラハ空港の中で、ピルスナー・ウルケルの生ビールで乾杯 beer
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オランダ・アムステルダムのスキポール空港(Amsterdam Schiphol) で乗り換え。

歩きに歩いてわかりにくい場所にあった税金払い戻しカウンターへ。 現金で払い戻しを受け、その現金で、照り焼き+ビール。 普通に美味しかった。
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空港 Gate E - F の間の通路沿いにある 「アムステルダム国立​​美術館アムステルダム·スキポール」 (The Rijksmuseum Amsterdam Schiphol ライクス・ミュージアム) でお土産を買いました。

★以前書いた記事 「オランダ国立美術館」@アムステルダム・スキポール空港 The Rijksmuseum Amsterdam」 Schiphol

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旅行期間は、2013/8/10(土)から8/18(日) 帰国。 17日(土曜日)には出国。 8/14(水) に、飛行機で ウィーン 朝10:05発、プラハ10:55着)。

実質8日間のうち、ウィーン4日、プラハ4日と長くはないですが、中身の充実した、良い旅となりました。

ただただ夫に感謝するばかりです。 どうもありがとうございました。 また一緒に旅したいです!

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ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 後半

ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半、「The Magic of Words」三部作」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

ひきつづき、アルフォンス・ミュシャ (ムハ Alfons Maria Mucha, 1860 - 1939) が、1912年から1926年にかけて描いた、全20作の連作画「スラブ叙事詩」(スラブ・エピック Slovanská Epope, The Slav Epic)の後半です。

タイトルは、パンフレットと http://www.muchafoundation.org/gallery/themes/theme/slav-epic より

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11. After the Battle of Vítkov Hill (1923) ヴィートコフの丘の戦いの後
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1420年7月14日。神聖ローマ皇帝ジクムント率いる十字軍は、カトリックの立場からは異端のフス派を撲滅すべく、ヴィートコフの丘を拠点として、攻撃を開始しました。

他方、ボヘミアの宗教改革の中心人物となったヤン・フスに共鳴し、フスの火刑(1415年)後、ボヘミア南部に共同体的要塞都市ターボルを築いた、トロツノフ (Trocnov) 出身のヤン・ジシュカ(Jan Žižka)。

ジシュカ率いる農民が主体の規律ある軍隊であるターボルの軍は、十字軍を撃退。
ここでは、戦いに勝利し、ヴィ ートコフの丘で、神への感謝を捧げる様子が描かれています。

両形色説の教義を信仰するウトラキスト(Utraquists)の司祭を前に、黄昏の光に照らされるジシュカ。
何人かは、司祭の前に五体投地し、敬虔な祈りを捧げています。

これに対して、左前方にいるフス派の女性は、一人背を向け、これからのフス戦争で犠牲になるであろう自らの子供たちの将来に思いを巡らせ、暗い想いに沈み込むのでした。

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12. Petr Chelčický at Vodňany (1918) ヴォドニュニ近郊のペトル・ヘルチスキー
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スラヴ叙事詩において、フス派から分派した「同胞同盟」(Jednota bratrská, The Unity of the Brethren) について、ミュシャは3つの作品を描いています。
その一つが、このボヘミアの宗教的社会思想家ペトル・ヘルチスキー (Petr Chelčický 1390年頃 - 1460年頃) に関する画。

ヘルチスキーは、最初はフス派の教えに共鳴していたものの、暴力による闘争は「悪」であるとして、無抵抗主義を唱えました。彼はフス派の運動から離れ、農村において、農民とともに労働と祈りの日々を送り、その活動が、15. The Brethren School in Ivančice イヴァンチツェの兄弟団学校、そして、16. Jan Amos Komenský ヤン・アモス・コメンスキー (コメニウス) のボヘミア兄弟団の活動へと繋がっていきました。

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1920年の一連のフス戦争において、ジシュカ率いるターボル (Tábor) 軍は、遠征先で侵略、略奪を行うようになり、南ボヘミアにあるヴォドニュニ(Vodňany)の街は焦土と化してしまいました。
住民は、近郊にある、ヘルチツェ (Chelčice) という、後にペトル・ヘルチスキーの名前にちなんで名付けられた村に避難し、池の堤まで犠牲となった負傷者と死者を運びました。

画面中央で、ヘルチスキーは、血なまぐさい復讐に燃え、手を振り上げる男の手をつかみ、復讐をしないよう説得する様子が描かれています。

以上、ペトル・ヘルチスキーについては、薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 134頁~136頁、178頁。アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 訳者解説 「同胞同盟」(浦井康男)529頁~530頁。イヴァンチツェの兄弟団学校については、同532頁。ヤン・アーモス・コメンスキー (コメニウス)については、同535頁~536頁。

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13. The Hussite King Jiří of Poděbrady (1923) フス派の国王、ポジェブラディのイジー
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1436年、ようやくフス派とカトリック教会との間で和平が成立。その後、数々の変遷を経て、1458年3月2日、フス派の国王、ポジェブラディのイジー (Jiří z Poděbrad, George of Poděbrady, ボヘミア国王在位:1458- 1471) は、プラハ旧市庁舎でボヘミア国王に選出されました(薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 171頁)。

ポジェブラディのイジーは、1462年、ローマ教皇ピウス2世と対立。
画面では、ローマ教皇から派遣された特使が、イジーに対してカトリックへの改宗を迫るも、イジーが椅子を倒すほどの剣幕で、これを拒む姿が描かれています。
その結果、イジーは、1466年、ローマ教皇パウルス2世によって破門されてしまうのでした(ブリタニカ国際大百科事典「イジー」、薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 188頁、2017年3月8日〜6月5日開催国立新美術館ミュシャ展のカタログ解説より)。

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14.The Difence of Szigetvár against the Turks by Nikola Zrinski (1914) ニコラ・ズリンスキによるシゲトヴァールの対トルコ防衛戦
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クロアチアのバン(総督)、ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ (Nikola Šubić Zrinski 1508年 - 1566年)は、ハプスブルク家に仕えたクロアチアの将軍。
1566年8月5日から9月7日にかけて、彼の部隊(2,300人)は、スレイマン1世自ら率いる少なくとも15万人ものオスマン帝国軍に対して、ハンガリー領の要塞、シゲトヴァールを死守戦うも (シゲトヴァールの戦い Siege of Szigetvár) 最後は全員が戦死。 https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Szigetv%C3%A1r

画面背景には、ニコラ・ズリンスキに向かって、誓いを立てる人々。火薬を蓄えていた高い砦の塔の側の足場に上って、戦いに備える女性や子供達。

そして、その足場の一番上には、かがり火用の金属製のかご(油壺)を持って立つ、ニコラ・ズリンスキの二番目の妻、南ボヘミア、ローゼンバーグ Rožmberk 出身のエヴァ。
彼女が、手にした火のついた油壺を、砦の火薬めがけて投げ入れるタイミングを見計らっている様子が描かれています。

現実には、ニコラ・ズリンスキの妻、エヴァは、砦の攻防戦には参加していませんでしたが、ミュシャは、ボヘミア民族とのつながりを表す人物として、エヴァを描きました。

前景の暗く立ち上るラインは、火薬の爆発による犠牲者を暗示する黒煙の柱です。

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15. The Brethren School in Ivančice (1914) イヴァンチツェの兄弟団学校
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前述、12. Petr Chelčický (1918) ペトル・ヘルチスキーの「同胞同盟」の活動は、やがて、チェコを代表する人文主義者ヤン・ブラホスラフ(Jan Blahoslav 1523年-1571年)へと引き継がれました。

この画には、ヤン・ブラホスラフも学んだ、モラヴィア地方、イヴァンチツェの「同胞同盟」の学校、「同胞同盟」の活動を受け継いだ「ボヘミア兄弟団」(Bohemia Brethren)の学校の様子が描かれています。

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ブラホスラフは、イヴァンチツェに印刷所を開設し、賛美歌集のほか、チェコ語訳の新約聖書を出版。ブラホスラフの死後も活動は受け継がれて、チェコ語訳の旧約聖書が完成。 1578年、迫害を回避するため、イヴァンチツェからクラリツェ・ナド・オスラヴィウへと印刷所が移され、そこでクラリツェ聖書(The Bible of Kralice)が印刷、出版されました。そして、ここで使われた文章は、現代チェコ語の基礎となったのでした。

※以上、アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 訳者解説 「同胞同盟」【ヤン・ブラホスラフ】【クラリツェ聖書】(浦井康男)531頁~533頁から引用。なお、クラリツェ聖書の図版は同書534頁。「ボヘミア兄弟団」については、ブリタニカ国際大百科事典。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bible_of_Kralice 参照

イヴァンチツェは、ミュシャの故郷でもありました。

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16. The Last days of Jan Amos Komenský in Naarden (1918) ヤン・アーモス・コメンスキー (コメニウス Comenius) のナールデンでの最後の日々
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ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス 1592年-1670年)は、ボヘミアの宗教指導者、教育改革者。

前掲、12. Petr Chelčický ペトル・ヘルチスキーの「同胞同盟」の活動を受け継いだ、「ボヘミア兄弟団」(Bohemia Brethren)の学校で教育を受け、ドイツ、ハイデルベルク大学でなどで神学を修めたあと、帰国。
ボヘミア兄弟団の指導者となり、1618年に僧籍を得る。

同年、1618年5月23日、プラハ窓外放擲事件が発生。
※ボヘミアのカトリック推進政策により、北ボヘミアでプロテスタントの礼拝堂が閉鎖され、さらには、ウィーンの神聖ローマ皇帝マティアスによって、プロテスタントの諸身分の議会が中止されたことに反発したボヘミアの貴族が、行政局の部屋に押し入り、二人の高官と一人の書記官を、二階の窓から投げ落としたという事件。
★以前書いた、ブログ記事:プラハ城 旧王宮 プラハ窓外放擲事件の部屋 30年戦争 ヴァーツラフの王冠

プロテスタント同盟VS カトリック連盟との間で 「30年戦争」(1618-1648)が勃発。
1620年11月8日、プラハ近郊にある 「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」 (Battle of White Mountain) で、プロテスタント軍が敗北。1621年6月21日、反乱の首謀者が、プラハの旧市庁舎前の広場で処刑され、その後、非カトリックの人々は祖国を追われることになりました。

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コメンスキー(コメニウス)は各所を転々とし、「ボヘミア兄弟団」の代表の一人として、亡命者のために拠点を作り、1628年にポーランドの拠点に亡命。その後、イギリス、スウェーデン、プロシア、オランダなどに移住。

コメンスキー(コメニウス)は、全ヨーロッパにおいて著名な教育楽的著作を執筆し、学校改革、教授法の改善に貢献。
オランダのアムステルダムで亡くなり、オランダの北ホラント州にあるナールデン(Naarden)に葬られました。

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画面右の遠景。死に際して、広大な水面を眺めながら、ただ一人、椅子にもたれ掛かって座るコメンスキー(コメニウス)の姿が描かれています。

「スラブ叙事詩(The Slav Epic)」の中で、ミュシャは唯一この画だけに、自らのサインを記しています。

アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 訳者解説 「同胞同盟」(浦井康男)529頁~530頁、ヤン・アモス・コメンスキー (コメニウス) については、同書535頁~536頁から引用。ほか、ブリタニカ国際大百科事典、参照。

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17. Holy Mount Athos (1926) 聖アトス山
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アトス山は、ギリシャ北部、エーゲ海に突出する半島の最先端にある、標高二千メートルの山。東方正教会の聖地として、現在も20の修道院があり、女人禁制の巡礼の地。

前掲、03. Introduction of the Slavic Liturgy (1912) スラヴ式典礼の導入で述べたように、モラヴィアは、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟コンスタンティノス(キリル Cyril)とメトディオス Methodius の派遣を受け、弟コンスタンティノス(キリル)は、スラヴ語を書き表す文字を考案し、キリスト教の福音書など、多くのキリスト教関係の文献をスラヴ語に翻訳。兄弟は、モラヴィアでキリスト教の布教活動を行い、弟子を育成しました。

モラヴィアで生まれたスラヴ語によるキリスト教の典礼は、その後、ブルガリアに導入され、前掲、04. Tsar Simeon I of Bulgaria (1923) のように、ブルガリアの皇帝シメオン1世が、ビザンチンの文献を次々とスラヴ語に翻訳した結果、ブルガリアやマケドニア地方では、スラヴ語によるキリスト教文化が開花。

その結果、スラブ系の言葉は、東方正教会で用いられる主要言語の一つとなりました。(以上、薩摩秀登著「物語 チェコの歴史」中公新書 22頁などから引用)

このように、スラヴとギリシャの東方正教会とは言葉の上でも深いつながりがありますが、1924年4月、アトス山を訪れたミュシャは、この地の古代からのスピリチュアルな雰囲気に、深い感銘を受けました。

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画面下方では、ロシアからの巡礼者が腰をかがめ、跪き、そして、大修道院長(igumens)から差し出された聖遺物に口づけをしています。
地上と天井の間には、アトス山にある4つのスラヴ系修道院を表わす模型を持つ智天使 (the cherubim) が、中心となる大修道院長に伴われて浮かび上がり、浮留する天使たちの姿もあり。
神秘的なシーンは、後陣 (the apse) にあるギリシア正教の「神の母」 Teotokos のモザイクで頂点に達しています。

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18. The Oath of Omladina under the Slavic Linden Tree (1926 未完) スラヴ菩提樹の下でのオムラディナ(オムラジナ)の誓い
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オムラディナ(オムラジナ Omladina)は、1894年に創設されたチェコの民族主義の若者組織。 1904年、指導者は逮捕、起訴され、刑に処されました。
http://www.muchafoundation.org/gallery/themes/theme/slav-epic/object/229

ミュシャは、スラヴ・リバイバル (The Slavic Revival スラブ民族の復興)に情熱を傾けました。

そして、汎スラヴ主義の思想家、ヤン・コラール(Ján Kollár 1793 – 1852)の詩、「スラヴァの娘 The Daughter of Slavá」(1824) は、この画にインスピレーションを与えたものの一つ。

コラールの「スラヴァの娘」の詩では、スラヴの国樹である菩提樹 (Tree of Slav) と、スラブ民族の守護女神スラヴィア (Slávia) という二つのモチーフが使われています。ミュシャは、この二つのモチーフをリンクさせて、この画を構成しています。

まず中央、菩提樹の下で輪になって、繋いだ手を上げ、ひざまづく若い男性。 その周囲には、現代的な格好をして、誓いを立てるかのように手を上げた男たち。彼らの顔は画としては未完成なため、現実のモデルが誰かは判りません。

また、女性達は傍観者として描かれ、菩提樹の上には、スラブ民族の守護女神スラヴィア (Slávia) 。この花輪がいくつか配された理想郷で、セレモニーが行われている様子が描かれています。


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19. The Abolition of Serfdom in Russia (1914) ロシアの農奴制廃止
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1861年にようやく廃止されたロシアの農奴制。雪の積もったクレムリン宮殿前、背後には雪に霞むワシリー大聖堂(St. Basil's Cathedral)。赤の広場に集まった民衆の姿が描かれています。

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20. The Apotheosis of the Slavs, Slavs for Humanity (1926) スラヴ民族の賛歌
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この画では、4つの色でそれぞれの時代が象徴されています。

右下の青色は、スラヴ史の初期。左上の赤色は、中世のフス戦争で流された血の色。すぐ下の黒い影は、スラブ民族の敵。中央の黄色は、第一次世界大戦から戻ってきたチェコとスロバキアの兵士、そして、オーストリア-ハンガリー帝国(ハプスブルク家)による支配からの解放による新しい時代の幕開けを。

中心を占める手を広げた裸の胸像は、新しく独立した共和国の象徴。 背後に寄り添うキリストがこれを祝福しています。

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以上のように、ミュシャの「スラヴ叙事詩」には、広くロシア、ブルガリア、セルビアを含む、スラヴ語圏の民族の歴史が描かれています。

そこには、チェコ民族主義と、スラブ民族の連帯と統一を目標とする思想運動である、「汎スラブ主義」 (Pan-Slavism) のイデオロギーが反映されています。 http://www.19thc-artworldwide.org/spring14/dusza-on-pan-slavism-in-alphonse-mucha-s-slav-epic

※汎スラブ主義は、オーストリア、ドイツ、オスマン帝国などに圧迫されていた西・南スラブ諸族(特にチェコ族)におけるナショナリズムの覚醒に伴って始まった思想運動。1848年のプラハ会議に結集されますが、1860~70年代、ロシアの帝国主義的南下政策と結びつき、ロシアを盟主とした、汎ゲルマン主義に対抗するものとなりました。(以上、ブリタニカ国際大百科事典)。


このような歴史をふまえた画として「スラヴ叙事詩」を見ると、なおさら興味を惹かれます。

明日 2017年3月8日水曜日から、東京、六本木の国立新美術館で開催される 「ミュシャ展」 http://www.mucha2017.jp/ では、「スラブ叙事詩」 (The Slav Epic) 全20作が、チェコ国外では世界初公開となりますが (6月5日月曜日まで。火曜休館)、東京で再びこの絵に出会うのが楽しみでなりません。

続きます。「プラハ 産業宮殿 ウィーン・プラハ旅行(完)

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ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半、「The Magic of Words」三部作

ミュシャ スラブ叙事詩を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

「スラブ叙事詩」(スラブ・エピック Slovanská Epope, The Slav Epic)は、アルフォンス・ミュシャ (ムハ Alfons Maria Mucha, 1860 - 1939) が、1912年から1926年にかけて描いた、全20作の連作画。
http://www.ngprague.cz/en/exposition-detail/alfons-mucha-the-slav-epic/

プラハ国立美術館(Národní galerie v Praze, the National Gallery in Prague http://www.ngprague.cz/en/)では、スラブ叙事詩のうち7作品は 610×810cm というサイズの大きさ、スラブ民族の歴史を伝えようとするミュシャの思いの強さが伝わって来て、ただただ圧倒されました。
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この超大作「スラヴ叙事詩」は、2017年3月8日(水曜日)から、6月5日(月曜日)まで (火曜休館)、六本木の国立新美術館の「ミュシャ展」で、チェコ国外の世界初公開とのこと。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
http://www.mucha2017.jp/

プラハ国立美術館、ヴェレトゥルジュニー宮殿(現在は Trade Fair Palace に改名)での特別展(2012年5月10日から 2016年12月31日まで)は、人が少なく混雑とは無縁で、ゆっくり見られました。 日本における特別展では、充実した日本語でのオーディオガイドやカタログが期待できそうなので、また見に行くのが楽しみですheart04

ミュシャの生涯とスラブ叙事詩の映像も流れていました。

これらの作品を見て、チェコの歴史をもっと知りたくなり、いろいろ本を読むきっかけとなりました。

★「The Magic of Words」三部作
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タイトルは、パンフレットと http://www.muchafoundation.org/gallery/themes/theme/slav-epic より

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01. The Slavs in Their Original Homeland (1912) 原故郷のスラヴ民族
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古代のスラブでは、数多くの戦いが繰り広げられました。

画面下には、スラヴ民族の祖先としてのアダムとイブが、無防備な難民としてうずくまっています。 星のきらめく暗い夜空をバックに、異教(キリスト教ではない、スラヴ独自の宗教)の司祭が神秘的に浮かび上がり、司祭は、戦争のアレゴリーである男性と、平和のアレゴリーである女性を左右に従えています。

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02. The Celebration of Svantovit in Rügen (1912) リューゲン島のスヴァントヴィート祭
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バルト海沿岸のリューゲン島のアルコナ(Arkona)には、かつて、キリスト教への改宗を拒んできた、スラヴ異教徒の砦があり、アルコナ岬では、毎年収穫祭が行われていました。 しかし、1168年、キリスト教徒のデンマーク王ヴァルデマー1世によって征服され、スヴァントヴィートの寺院は破壊されてしまいます。

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03. Introduction of the Slavic Liturgy (1912) スラヴ式典礼の導入
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モラヴィア王ロスチスラフ (Rastislav of Moravia) は、キリスト教国として宗教的にも自立すべく、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に支援を仰ぎ、ギリシャ、テッサロニキ出身の兄弟コンスタンティノス(キリル Cyril)とメトディオス Methodius の派遣を受けました。弟コンスタンティノス(キリル)は、スラヴ語を書き表す文字を考案し、キリスト教の福音書など、多くのキリスト教関係の文献をスラヴ語に翻訳。兄弟は、モラヴィアでキリスト教の布教活動を行い、弟子を育成しました。

その後、兄弟はローマに赴き、教皇ハドリアヌス2世 (Pope Adrian II) から歓待を受け、ミサなどの典礼用語としてスラヴ語を用いてよいとの承認を獲得。
しかし、ローマ滞在中の869年、コンスタンティノスは病死。その死の直前に修道士となり、キュリロス(キリル)という名前を得ます。兄メトディオスは、教皇からパンノニアとモラヴィアを含むシルミウム大司教に任命され、870年、再びモラヴィアに赴きました。

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しかし、それ以前には、現在のドイツにあたる東フランク王国、パッサウ司教の監督下に置かれていたモラヴィア。 東フランク王国の聖職者らは、典礼用語としては、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語を用いるべきで、それ以外の言語を用いるべきではないと主張していたのです。
そのため、メトディオスは東フランク側に捕らえられ、873年、教皇ヨハネス8世によって釈放されるまで獄中生活を送るはめに・・・。

【※聖書は、旧約聖書と新訳聖書から成り、旧約聖書は、もともと古代イスラエル民族に伝わる口承文学。古くは、ユダヤ教の聖典として確立され、キリスト教、イスラム教の信仰の拠りどころともされています。

旧約聖書のヘブライ語聖書は、前3世紀にエジプトのプトレマイオス2世の命によってギリシア語に翻訳。そして、カトリック教会の正典のラテン語訳聖書(ウルガータ聖書)は、382年から405年にかけて、ヒエロニムスによって、ヘブライ語ギリシア語の原テキストからラテン語に翻訳されました。

これに対して、新約聖書は、すべてギリシャ語で書かれています(季刊誌「考える人」2010年春号 特集「はじめて読む聖書」52~53頁 山形孝夫「聖書ってどんな本?」、田川建三ほか「はじめて読む聖書」新潮選書】

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メトディオスがやっと解放された後、大モラヴィア (Great Moravia) を統治していたのは、スヴァトプルク (Svatopluk I of Moravia)。スヴァトプルクは、教皇の裁定を仰ぐために、教皇のいるローマへとメトディオスを派遣します。

880年、ローマ教皇ヨハネス8世 (Pope John VIII) は、スラヴ語での典礼に正当性があることを承認しました。
もっとも、まずはラテン語で、その後にスラブ語の翻訳で典礼を行うという条件付き。このように、双方の融和を図る形でスラヴ式典礼が導入されたでした。

以上、【※】以外、薩摩秀登著「物語 チェコの歴史 森と高原と古城の国」中公新書、7頁~20頁、アロイス・イラーセク 著、浦井康男 訳・注解「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会)121頁~123頁、446頁参照。)

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画面右下には、ミサなどの典礼にスラヴ語を用い、メトディオスをモラヴィアの大司教として承認する旨の、ローマ教皇ヨハネス8世の勅書を読み上げる助祭と、それを聞くモラヴィア国王スヴァトプルク。中央には、ひざまずく二人の見習い僧を左右に従えて立つメトディオス。左下には、彼の信奉する民衆たち。

画面上中央には、ドイツ皇帝に支配を及ぼすローマ教皇、ビザンチン皇帝、正統派教会の指導者ら。その下には、スラブ民族を統率する、マントをまとった姿のキリル。

画面右上には、二組のカップル。ブルガリアの聖ボリス (Boris I of Bulgaria) と彼の妻、そして、聖オリガ (Saint Olga) と彼女の夫であるロシアのキエフ大公国第2代大公イーゴリ1世 (Igor of Kiev) 。

手前には、「統一の力」(strength in unity) を象徴する、大きなリングを空に掲げた若い男が描かれています。

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04. Tsar Simeon I of Bulgaria (1923) ブルガリアの皇帝シメオン1世
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9世紀の変わり目に、ブルガリアの黄金時代を築いたシメオン1世。 彼は、若い頃、ビザンチンで教育を受けたが、スラヴ文化をビザンチンと同様のレベルに引き上げようと決意。 学者達を集め、ビザンチンの文献をスラヴ語に翻訳させました。

また、先ほどの大モラヴィアの大司教メトディオス亡き後、大モラヴィアではスラヴ語の典礼が廃止され、メトディオスの弟子達は追放されてしまいましたが、ブルガリアの皇帝シメオン1世は、この追放された弟子達のために、避難先を提供したのでした。

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05. King Přemysl Otakar II of Bohemia (1924) プシェミスル朝のボヘミア王、オタカル2世
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プシェミスル朝のボヘミア国王、オタカル2世(King Otakar II of Bohemia 1230年? - 1278年、在位1253年 - 1278年)は、最強の実力者として、その勢力を盤石なものにするため、婚姻政策によりハンガリー国王ベーラ4世(Hungarian King Béla IV)との結びつきを深めていきました。

まずは、1261年10月25日、オタカル2世自らがハンガリー王の孫娘クニグンデ (Kunigunde) と再婚。 次いで、オタカル2世は、彼の姪とハンガリー王の若い息子との婚姻をアレンジし、1264年10月5日、盛大な結婚式をあげさせます。

この盛大な祝賀会には、ハンガリー国王ベーラ4世のほか、東ヨーロッパの広地域ルーシを支配していたダヌィーロ・ロマーノヴィチ (the King Daniel of Galicia), セルビア国王ステファン・ウロシュ1世 (the Serbian King Stefan Uroš I)、クロアチア、ボスニア、トランシルヴァニアなどの君主が列席。
これによって、ボヘミアとハンガリーとの同盟関係が確立されました。

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なお、このオタカル2世は、1246年、最初の結婚でバーベンベルク家出身のオーストリア公の公女マルガレーテと結婚。バーベンベルク家の男子継承者は断絶していましたが、女子の相続が認められていたので、オタカル2世はオーストリア公領を手に入れていました(再婚前に、オタカル2世側からマルガレーテと離縁)。

このオタカル2世が国を治めた13世紀頃、ボヘミアではクロナー・ホラの銀山をはじめとする、鉱山の開発が進められたほか、130もの都市が創られ、経済的にも発展。

「鉄と黄金の王 (Iron and Gold King)」と呼ばれたオタカル2世でしたが、1278年8月26日、現在オーストリアのマルヒフェルトの戦いで、ドイツ王ルドルフ1世(1218年 - 1291年)に敗北。戦死。

ルドルフ1世は、ハプスブルク家最初の神聖ローマ帝国皇帝となったのでした。(菊池良生著「神聖ローマ帝国」講談社現代新書 140頁参照)

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06. Coronation of the Serbian Tsar Stefan Uroš Dušan as East Roman Emperor (1923) 東ローマ皇帝として戴冠する、セルビア皇帝ステファン・ウロシュ・ドゥシャン
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ステファン・ドゥシャン(Štěpán Dušan 1308 - 1355)は、1331年にセルビアの皇帝となり、東ローマ帝国の勢力が衰える中、アルバニアとマケドニアを奪取。セルビア王国の領土を拡張。帝国の全盛期を築きました。(Wiki)

ステファン・ドゥシャンは、自らを「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、1346年の復活祭の日曜日、皇帝として戴冠。この画には、この戴冠式のあとの行進で、行列の真ん中に立つステファン・ドゥシャンの姿が描かれています。

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07. Jan Milíč of Kroměříž (1916) クロミェジージュのヤン・ミリーチ
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14世紀、中世チェコの最盛期を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(Karel IV. ドイツ名:カール4世 Karl IV、神聖ローマ皇帝在位:1355 - 1378年、ボヘミア国王在位:1346 - 1378年)の宮廷に仕えるも、のちに職を辞し、説教師となって教会批判を行ったクロムニェジーシュのヤン・ミリーチ (Jan Milíč of Kroměříž, 1374年死去)。

ヤン・リミーチは、プラハの売春婦を悔い改めさせ、売春宿を取り壊した跡地に、慈善施設「エルサレム」、聖マグダラのマリア教会、そして悔い改めた罪人のための収容施設を、カレル4世の助けを借りて建設しました。

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08. After the Battle of Grunwald (1924) グリュンヴァルトの戦いの後
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1410年7月15日の、グリュンヴァルト (タンネンベルク)の戦い(Battle of Grunwald (Tannenberg))。
この戦いは、中世ヨーロッパにおける最大の戦いの一つで、ポーランド・リトアニアを中心とし、ボヘミアなどを含む連合国と、ドイツ騎士団の軍とが激突。 ポーランド側が大勝利を収めました。

この戦いにおいては、当時プラハの宮廷に仕えていたヤン・ジシュカ(Jan Žižka)もポーランドを助けるために戦いに参加し、そこで片目を切られたといわれています(アロイス・イラーセク 著、浦井康男 訳・注解「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会)286頁~287頁、510頁)。

のちに、ジシュカは、ボヘミアの宗教改革、民族主義運動の中心人物となるヤン・フスに共鳴し、フスの火刑(1415)後、ボヘミア南部に共同体的要塞都市ターボルを築き、フス戦争では、神聖ローマ皇帝ジギスムントの十字軍を撃破しました。

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09. Master Jan Hus Preaching at Bethlehem Chapel (1916) ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス
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★以前書いた記事:プラハ 「ベツレヘム礼拝堂」、ヤン・フスの説教 ミュッシャ「スラブ・エピック」

1412年、フスが説教を行った、ゴシック最盛期の礼拝堂の様子を再現。
右側、赤い天蓋の下、フスの説教を熱心に聞き入っている女性は、カレル4世の息子であるヴァーツラフ4世(Wenceslaus IV, Václav IV.) の王妃ソフィア

ヤン・フス(Jan Hus, 1370年頃 - 1415年) は、ボヘミアにおける宗教改革で指導的立場に立った人物。

1402年、ベツレヘム礼拝堂の説教師に任命されたフスは、1402年から1412年にかけて、収容人数 3,000人といわれる、この礼拝堂で、カトリック教会の堕落を糾弾。 教会改革を訴えたほか、ローマ教皇のよる「贖宥状」(しょくゆうじょう、免罪符)の販売を批判。

「コンスタンツ公会議」において矯正不可能な異端者と宣告され、1415年7月6日、火あぶりの刑に処されました。

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10. The Meeting at Křížky (1916) クジーシュキでの集会
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カトリックの公式教義によれば、俗人の聖体拝領は、キリストの肉であるパンbreadだけで十分とされていますが、1414年末、ウィクリフ派のストシーブロのヤコウベクは、福音書にあるキリスト最後の晩餐のときの言葉に基づき、聖職者と同様、俗人であっても、パンbreadと葡萄酒wineの両方を用いた聖餐(両形色の聖餐)を施すべきという二種聖餐を主張(両形色説、ウトラキスムス)。これがフス派の支持を集め、葡萄酒を入れる聖杯がフス派の運動のシンボルとなりました。

この両形色説の教義を信仰する者は、ウトラキスト(Utraquists)と呼ばれ、カトリック教会と対立。ウトラキストの聖職者は、ヤン・フスの火刑後、カトリック側の圧力により活動を制限される中、プラハなどの都市から離れた山の上で人々を集めて説教を行うようになりました。(薩摩秀人著「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革」現代書館 109頁~121頁、アロイス・イラーセク著 浦井康男 訳・注解 「チェコの伝説と歴史」(北海道大学出版会) 付録 ヤン・ジシュカとフス派戦争(浦井康男)403頁~407頁)

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このような山への巡礼は、当初は平和的なものでした。しかし、1419年9月30日、プラハの南東、ベネショフ (Benešov) の近くにあるクジーシュキ (Křížky) において、急進的な西ボヘミア、プルゼニ Plzeň(ドイツ語名: ピルゼン Pilsen)の僧、ヴァーツラフ・コランダ (Václav Koranda) は、信者は巡礼のための杖ではなく、剣を持って信仰を守るべしと主張。

この声明が、フス派による改革運動に勢いを与え、フス派戦争勃発への引き金となりました。

プルゼニ(ピルゼン)からの巡礼者は、一日前に説教の場に到着して野営。曙光の中、プラハから続々と到着する群衆たち。赤と白の旗印の下、方々から詰めかける巡礼者を見下ろす仮設の説教壇の上に立ち、祈りを捧げようとしているヴァーツラフ・コランダの姿が描かれています。

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ミュシャは、スラヴ叙事詩において、 14世紀から15世紀にかけてのボヘミアとモラヴィアの改革の伝道者にスポットをあてた「The Magic of Words」三部作を描きました。

この三部作の中心に位置するのが、ヤン・フスに捧げた、「09. Master Jan Hus Preaching at Bethlehem Chapel (1916) ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス」。

その左に縦のパネルで、ヤン・フスの師、クロミェジージュのヤン・ミリーチ、「07. Jan Milíč of Kroměříž (1916) クロミェジージュのヤン・ミリーチ」。

その右に縦のパネルで、ヤン・フスの継承者とみなされるヴァーツラフ・コランダ、「10. The Meeting at Křížky (1916) クジーシュキでの集会」 が描かれたのでした。

続きます。「ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 後半

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ミュシャ スラブ叙事詩を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ

プラハの夜景を見る」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ最終日の午前中、ミュシャ スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) へ。

宿泊したホテル、グランド・ホテル・ボヘミアの窓から、遠くにプラハ城を望む。青空がきれい。眺めも良かったし、名残惜しい。
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路面電車 24番で Náměstí Republiky (共和国広場) から Veletržní palác (ヴェレトゥルジュニー宮殿) へ。
★以前書いた記事: プラハ 路面電車でプラハ城へ ★路線図&時刻表
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路面電車の車窓から、ヴルタヴァ川を眺める。 「シュテファニーク橋」"Štefánikův most" (シュテファニクーフ・モスト) を渡って、対岸へ。
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Veletržní palác (ヴェレトゥルジュニー宮殿) 到着。
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大きなビルの 「ヴェレトゥルジュニー宮殿・プラハ国立美術館 (Veletržní palác - プラハ国立美術館(Národní galerie v Praze, the National Gallery in Prague))」 http://www.ngprague.cz/

中は広く、ミュシャ(ムハ)「スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)」 Alfons Mucha: Slovanská epopej 特別展のチケット(1枚 180チェコ・コルナ(CZK)、日本円で900円くらい)を買って、一階左の特別展の入口へ。

その入ってすぐ右側にある受付で、スラブ・エピックのパンフレットがあるかどうかを聞いて、英語でスラブ・エピック全20作、各作品の詳しい解説が書いてあるパンフレットを購入。
パンフレットがあるかどうかも、特に表示がなかったような気がするので、受付の人に聞いてみて良かったflair
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ミュシャ「スラブ叙事詩」全20作。一作一作、とても大きい作品なのに、とにかくびっくり。
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http://www.ngprague.cz/en/exposition-detail/alfons-mucha-the-slav-epic/

続きます。「ミュシャ スラブ叙事詩を見る @プラハ ヴェレトゥルジュニー宮殿 (プラハ国立美術館) 前半

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プラハの夜景を見る

プラハ ボタニクスでお土産を買う ウンゲルトで晩ご飯」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ最後の夜は、ボタニクスでお土産を買って、ウンゲルトで晩ご飯のあと、カレル橋まで歩きました。

旧市街広場 旧市庁舎の塔。 時計の針は、夜10時25分。
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旧市街広場にあるレストランのテラスは、大賑わい。人通りも多かった。

旧市街広場 ティーン教会の塔。 ライトアップされた塔は、必見の美しさshine
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カレル橋の手前。 カレル橋の旧市街橋塔。 こちらもライトアップ。
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カレル橋の上。 夜10時45分頃にして、この人の多さ!!
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カレル橋から、ライトアップされたプラハ城を眺めるcrownshine
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橋の上の彫像と満月
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旧市庁舎の時計塔とティーン教会
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旧市庁舎の天文時計 夜11時25分。
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昼間の天文時計
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王の道、ツェレトナー通りから火薬塔を望む。
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雰囲気ある石畳の道
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まさに、夢のようなひととき。 素敵なプラハ、最後の夜でした。

翌日はいよいよ待望の、ミュシャ 「スラブ叙事詩 (スラブ・エピック)」特別展 @ヴェレトゥルジュニー宮殿・国立美術館 (Veletržní palác - Národní galerie) http://www.ngprague.cz/

続きます。「ミュシャ スラブ叙事詩を見に、ヴェレトゥルジュニー宮殿 (国立美術館) へ

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プラハ ボタニクスでお土産を買う ウンゲルトで晩ご飯

プラハ建築散歩 ヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区)パリ通り」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ ヨゼフォフ、19世紀末から20世紀初頭にかけての都市再開発に基づく、瀟洒な街並みを眺めたあと、
パリ通り(パジーシュスカー通り Pařížská)から旧市街広場に出て、左側へ。 ドロウハー通り (Dlouhá) から 5つ角にある広場。 この角にある、写真左側、タマネギの形の塔のある建物には、
人気ベーカリー 「 ベイクショップ (Bakeshop)」 http://www.bakeshop.cz/
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もうちょっと長い滞在だったら、入ってみたかったなぁ。
5つ角から、ぐるっと歩いて、ティーン教会の裏手にある ウンゲルト (Ungelt) へ。

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チェコのウンゲルトにある 「ボタニクス(Botanikus)」 でお土産を買いました。

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香りのいい石鹸やフェイスクリームなど、ナチュラルスキンケア製品がいっぱいあって、目移りしまくりshine

私が買って一番良かったなと思ったのは、日本未入荷の Botanicus Shea Hemp and Neroli Anti-aging & Replenishment Night Butter

これは。自然なネロリの香りがたまらないシアバターのナイトクリームheart01 アロマの先生も気に入って、使い終わった後、チェコの公式サイトからお取り寄せしてたほどlovely ネロリの香り好きにとっては、たまらない香りheart04

あとは、一番香りの気に入ったシトラス系の石鹸と、死海の泥の石鹸 Dead Sea Mud Specialty Soap。

それからお土産に無難かもなローズフェイス&ボディミルク Rose Body & Face Milk。
香りのアイテムは、人によって好き好きがあるので、ほんとに無難な選択。母へのお土産に気に入ってもらえました。

日本でも公式サイトの通販あり。 http://www.botanicus-shop.jp/

★プラハ ボタニクス Botanikus http://www.botanicus.cz/
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ウンゲルトの中庭にあるアイリッシュパブ 「The Dubliner Irish Pub」 http://www.aulddubliner.cz/ のテラス席で晩ご飯。

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最初はチェコビールで乾杯。2杯目からは、とっても美味しいアイリッシュビール(笑)。 食事も美味しかったし、女性の店員さんも感じが良かったし、今でも、とてもいい印象が残ってますcuteup
トイレを借りに、お店の中へ。若い人たちがいっぱい。 賑わっていました。

夜のウンゲルト
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続きます。「プラハの夜景を見る

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プラハ建築散歩 ヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区)パリ通り

プラハ シナゴーグ 地図 (旧ユダヤ人街 ヨゼフォフ)」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

★プラハ シナゴーグの地図 (クリックで拡大)https://mapy.cz/ に加工
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プラハのシナゴーグのあるヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区)を歩いて、「パリ通り」(パジーシュスカー通り Pařížská )へ。
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アールヌーヴォーの装飾のある美しい玄関
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こちらは、かつてのユダヤ人街でゲットーのあった場所。

マリア・テレジアの息子、ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741-1790)によってゲットーが廃止され、ゲットーを取り囲んでいた壁は取り壊されましたが、裕福なユダヤ人がここを去って、スラム化してしまいます。

そこで、19世紀末から20世紀初頭にかけて、シナゴーグ以外の古い建物が取り壊され、パリの街並みをお手本に、歴史的建築意匠が組み合わされた、アールヌーヴォーの装飾のあるファサードのある建物が新たに建てられ、この通りは 「パリ通り」(パジーシュスカー通り Pařížská ulice)と名付けられました。

高級建築物が建ち並ぶ緑の街路樹clover。 このパリ通りには、数多くの高級ブランドshineのブティックがあり、中には入りませんでしたが、その建築の美しさに目を奪われ、優雅な気分にcute

ロレックスのブティックが入っているタウンハウス(townhouse)。写真右側の緑の街路樹のある通りが、パリ通り。左側はシロカー通り。
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Jimmy Choo (ジミーチュウ)のブティックが入っているタウンハウス。
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上品で美しいファサード。
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この細かなディテールに目を奪われる。
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女神さま、そしてワシ?がお出迎えしてくれている玄関
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パリ通りとシロカー通りの角にある、近代的な公衆トイレ
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パリ通りの先には、旧市街広場(写真には、ヤン・フス像が小さく写っています)。 その手前にあるカルティエのブティック入っているタウンハウス Scnierův dům
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旧市街広場に面したファサードに施された彫刻。これもまた美しいlovely
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http://stary-web.zastarouprahu.cz/ruzne/schier.htm 参照(チェコ語)

そして、旧市街広場。 夕刻の日に照らされたキンスキー宮殿と、ティーン教会。 手前には、ヤン・フス像。
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歴史的なシナゴーグ。美しい街並。ヨゼフォフ(旧ユダヤ人街)散策、楽しかったです。

このあと、ウンゲルトの中にあるボタニクスでお土産を買って、ウンゲルトの中にある The Dubliner Irish Pub のテラスで晩ご飯。
街灯に照らされた石畳の道を歩いて、カレル橋まで。 プラハ最後の夜を過ごしました。

続きます。「プラハ ボタニクスでお土産を買う ウンゲルトで晩ご飯

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プラハ シナゴーグ 地図 (旧ユダヤ人街 ヨゼフォフ)

プラハ旧市庁舎 ガイドツアー 地下見学 (中世アンダーグラウンドツアー)」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

★プラハ シナゴーグの地図 (クリックで拡大)https://mapy.cz/ に加工
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プラハ旧市庁舎から、聖ミクラーシュ教会(旧市街広場)の裏手、マイゼロヴァ通り(Maiserova)の角にある、フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924) の生家へ。
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ここは、ユダヤ人の作家、カフカが誕生した家で、1883年から1885年にかけて居住。 家の角には、カフカの肖像の記念碑。
★公式サイト 「フランツ・カフカ と プラハの家」 Franz Kafka and Prague Residences, http://www.kafkamuseum.cz/

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ここから先が、かつてユダヤ人ゲットー(ユダヤ人居住区)があった場所。

マリア・テレジアの息子、ヨーゼフ2世 (Joseph II, 1741-1790)は、ゲットーを取り囲んでいた壁を取り壊し、ユダヤ人に教育の自由、職業選択の自由を与えました。

1848年、ゲットーがあった場所は、プラハ五区ととしてプラハ市内に編入されて、皇帝ヨーゼフ二世にちなんで「ヨゼフォフ」と名づけられたのでした。

★プラハ ユダヤ人街のシナゴーグの場所の地図
http://www.jewishmuseum.cz/en/info/visit/how-to-find-us/

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マイゼロヴァ通り(Maiselova)を歩いて右側にある、
「マイゼル・シナゴーグ」(Maisel Synagogue)
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マイゼル・シナゴーグは、1583年に王宮をプラハ城に移した皇帝、ルドルフ2世 (Rudolf II)」(1552-1612, 神聖ローマ皇帝在位 1576-1612) によって付与された権限に基づいて、1592年、プラハのユダヤ人ゲットーの長(the Mayor of the Prague Jewish Town.)だった、モルデカイ・マイゼル (Mordecai Maisel) によって建立。

シナゴーグは、1689年のゲットーの火災で焼失し、数回再建。1905年、現在のネオゴシック様式のシナゴーグが完成しました。

http://www.jewishmuseum.cz/en/explore/sites/maisel-synagogue/

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「ユダヤ人地区集会所」(Jewish Town Hall, Židovská radnice) 
写真中央の薄いブルーの建物。 写真ではきれいに写っていないけれど、時計に注目でしたclock
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「旧新シナゴーグ」(Old New Synagogue, Staronová synagoga)
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「旧新シナゴーグ」は、ヨーロッパで現存する最古のシナゴーグで、ギザギザの屋根の形が特徴的。

1270年頃に建てられた初期ゴシック様式の建物部分と、16世紀後半に建てられた二つ建物部分から成るため、「旧新シナゴーグ」と呼ばれている。

http://www.synagogue.cz/

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「旧新シナゴーグ」の前で左折すると、左側に売店(行ったときには、閉店時間が過ぎて閉まっていた)。正面に見えているのが、「儀式の家」(Jewish Ceremonial Hall, Obřadní síň)
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「クラウス・シナゴーグ」(Klausen Synagogue, Klausová synagoga)
http://www.jewishmuseum.cz/en/explore/sites/klausen-synagogue/
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「儀式の家」(Jewish Ceremonial Hall, Obřadní síň)。
クラウス・シナゴーグの右隣。 1906年から1908年にかけて、ネオ・ロマネスク様式で建てられた。
http://www.jewishmuseum.cz/en/explore/sites/ceremonial-hall/
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旧ユダヤ人墓地(Old Jewish Cemetery, Starý židovský hřbitov) ※儀式の家の横から撮影。
http://www.jewishmuseum.cz/en/explore/sites/old-jewish-cemetery/
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儀式の家の右側に続く、旧ユダヤ人墓地の塀
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時間があったら、シナゴーグの中の博物館も見学してみたかった。
http://www.jewishmuseum.cz/en/info/visit/

続きます。「プラハ建築散歩 ヨゼフォフ(旧ユダヤ人地区) パリ通り

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プラハ旧市庁舎 ガイドツアー 地下見学 (中世アンダーグラウンドツアー)

プラハ 市民会館 レストラン」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ旧市街の広場でお土産を買ったあと、プラハ旧市庁舎 見学ガイドツアーへ。
ガイドツアーには、地下見学 (アンダーグラウンドツアー)も含まれていて、中世のプラハの姿を垣間見ることができ、参加してとても良かったです! 日本語ツアーはありませんが、日本語の解説シートを貸してもらえます。

★OLD TOWN HALL IN PRAGUE:http://www.staromestskaradnicepraha.cz/en/
★見学ガイドツアーのスケジュール http://www.staromestskaradnicepraha.cz/en/practical-informations/daily-schedule/ 日によって、時間と言語が違うので、要チェックflair
旧市庁舎見学ツアー FULL TOUR (the chapel, historical halls and undeground)) 料金:大人 100,-Kč

★日本語版PDF 解説
 http://www.praguecitytourism.cz/file/edee/universal/maps/letak_starom-radnice_2015_jpn_20150807_tisk.pdf

旧市庁舎の天文時計の十二使徒の人形、その仕組みを見学。 外からだと見えずらいけど、ここでバッチリ見ることができましたnote
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★以前書いたブログ記事:「プラハ 旧市庁舎と天文時計、ミュシャ 「黄道十二宮」

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続きを読む "プラハ旧市庁舎 ガイドツアー 地下見学 (中世アンダーグラウンドツアー)"

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プラハ 市民会館 レストラン

プラハ 市民会館 ミュシャの壁画 市長ホール」のつづき。★プラハ個人旅行 まとめ記事

プラハ 「市民会館」 (Obecní dům) http://www.obecni-dum.cz/ の見学ガイドツアーのあと、地下レストランへ。
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まずは、ピスルナー・ウルケル Pilsner Urquell で乾杯~ beer
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伝統的なチェコのグラーシュ Staročeský guláš 蒸しパンも含めて、すご~く美味しかったnoteshine
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コゼルの黒ビール Velkopopovícký Koze コクがあって、これも美味~cute
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壁画もあって、雰囲気も気取らなくて、銀座のライオンのチェコ版みたいな感じでした。
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地下なんだけど、綺麗なステンドグラスもありcute
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値段もリーズナブルで、この市民会館地下レストランは、本当に入って良かった。
税金は21% (základ = 基礎、税抜き価額)。
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レストランのある地下には、アメリカン・バーもあって、こっちも入ってみたかったなぁ~。
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バーの入口前にあった、市民会館の模型
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壁の葡萄酒の杯(聖杯?)の装飾
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次に、旧市庁舎の見学 アンダーグラウンドツアーへ。

続きます。「プラハ旧市庁舎 ガイドツアー 地下見学 (中世アンダーグラウンドツアー)

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